7

 S区が数年前まで高級住宅街として羨望の眼差しを向けられていたとは思えなかった。

 小石や土が剥き出しになった更地がS区の三割を占め、更地の一区画を見れば、風化で崩れかけの基礎部分から豪邸といえるサイズの住宅があったのだろうとかろうじて思いを巡らせられた。

 S区は怪人による甚大な被害を受けた地域の一つだ。都心であれば復興資金も集まりやすいが、住宅地は見放される。何より生き残った住民がもう住みたくないと言うのだ。愛した人が目の前で酷い有り様で死んだ、その場所に住み続けるというのは拷問に近い。

 カーナビに従い、車を走らせ続けると、住宅数が増え始めた。この辺りは被害を免れたようだ。スマイルの自宅も住所からするに百メートルの範囲にあるようだ。スピードを落とし、左右に目を配る。街灯が途切れたあたりにそこはあった。


「あ、ここですね」


 胸のあたりまである門扉の前で車を停めた。車外に出て、ざっと家を眺めてみる。

 S区での怪人による被害が発生する前から、スマイルはS区に住まいを持っていた。ごく普通の一軒家だが、北欧風の外観には拘ったのだろう。が、豪邸というほどは大きくない。屋根に太陽光発電パネルが設置されているのが不自然だった。


「ここに住んでいたんですね。彼にとっては狭そうな気もします」

「きっと充分だったんだよ。一年前までは夫婦二人で住んでたんだから」


 骨刃警視が表情を変えずに言った。

 夫婦としての暮らしが営まれた場所。二人には子供がいなかった。半分使う者がいなくなってから一年をこの家で休養した彼はどんな心境だったのだろう。そして、スマイルまで亡くなり、住民はいなくなってしまった。

 彼女が門扉を抜け、三メートルほどのアプローチを渡り、玄関ドアの鍵穴に合鍵を差し込んだ。解錠される音が軽く鳴った。合鍵は道上が預かっていた。もしもスマイルが戦闘中も鍵を身につけていたら、ドロドロに溶けていただろう。

 この仕事に就いてから他人の家に足を踏み入れる機会は増えた。そして、必ずといっていいほど歓迎されることがない。持ち主が被害者だったときも多く、慣れていた。けれど、何だか落ち着かない。

 住居に入ると、持ち主を亡くしたことを悼むように新築に若返ったような木の匂いが香った。

 骨刃警視は縦に二つ並んだスイッチを、手袋をはめた手でそれを押した。が、どちらも明るくならない。


「どういうこと?」

「電球が切れてるんですかね? まあ、そこまで暗くないですし気にせず行きましょう」

 僕は天井についた役立たずの照明から目を離して訊いた。

「わざわざここまで来たのは犯人の動機を探るためですか?」

 彼女はうなじを掻きながら、

「明確な目的はない。犯人を示す手がかりが見つかればいいなと思ってるだけ。それに、私は毒公と道上は犯人じゃないと思ってる」

「えっ! どういうことですか?」

 二人しかコップにサマエルを混入することができないというのに。

「そこがおかしい。わざわざ自分が犯人だと絞り込まれるタイミングでサマエルを入れることないし、暗闇で何かを混入するなんて失敗するリスクが高い」

「でも、現時点ではあのタイミングしかチャンスはなかったはずです。もし、二人が犯人ではないなら、何らかの能力を使ったとしか」

「今回はどう?」


 自分なりに検討してみる。

 有毒夫妻の能力は強酸を作るというもの。サマエルの容器を溶かすのには向いているだろうが、誰の目にも触れずに混入するトリックには向いていない。

 氷妃は温度変化の能力は持っているが、ポットやコップが透明だったから、能力を使用したときに容器内での極端な温度変化が結露として目に見える可能性が高い。

 今回は、能力を利用していないのか?

 骨刃警視はまず一階のリビングに入った。スイッチを押すとぱっと照明がついた。

 家具や家電はいたって普通のラインナップ。テレビに向かい合わせで置かれたソファーに、佐藤夫妻が肩を寄せ合って座る光景が目に浮かぶ。

 テレビの横、テレビ台の上に一辺五十センチほどの直方体の木箱が置かれているのに気づいた。高級な和菓子でも入っていそうな上質な桐だ。僕は、そっと蓋を開けた。


「うわ!」


 不格好に尻餅をついた。背中に玉のような汗がぶわっと吹き出している。

 何だ、これは。

 いや、何かはわかる。どうしてこんなものを置いているのか、それがわからない。


「め、目玉、ですよ。それも人のに比べたら二倍以上はあります。大型の動物の眼球でしょうか?」


 毛細血管が透けたオフホワイトの一つの球体がとろみのある液中に沈んでいた。

 驚くべきことは、その眼球がときおりぴくりと動くのだ。

 この液体は、生理食塩水だろうか。しかし、そんなものにつけたところで眼球が動くなんてことがあり得るか?

 彼女はガラス瓶に沈むそれを凝視したあと、木箱を注意深く観察し、息を小さく吸った。


「そういうこと……」

「これが何かわかったんですか?」

「蓋の裏に美紀さんの命日が書いてあった。これは、美紀さんの眼球……正確に言えば、美紀さんが怪人化したあとの眼球。怪人の亡骸は機関の管理下におかれるはずだけど、スマイルは特別に眼球だけは返してもらったのかも」


 そうか。怪人の身体の一部が稀に独立して活動することがある。美紀の場合は、それが眼球だった。

 これは、愛情なのだろうか。目玉だけになっても共に暮らした、という。

 スマイルが世界一の英雄であることは間違いない。しかし、生前から彼には僕らの理解の及ばない部分が多かった。謎の中でも一際興味を引いたのが『スマイルはなぜ多様な能力を持っているのか』だ。

 国際英雄機関によって立証はされていないが、亜人の能力は覚醒時に思念していたことに加え、覚醒時の環境に左右されるというのが統計的に推測されていた。

 警視の場合、姓が骨刃で、実家が剣道場だからわかりやすい。氷妃も同じ。有毒夫妻は、覚醒前の職場である産業廃棄物処理施設で能力に関する事物に触れていた。強くなりたい、という思いと、彼らを取り巻く環境的な要素が合わさった能力が発現している。


「別の場所を探そう」


 彼女は瓶を元通りに木箱に戻した。一階を骨刃警視、二階を僕で手分けして捜索にあたった。

 二階には三部屋あった。

 階段を上がって、左に曲がった突き当りにはトイレがあり、その隣の部屋は物置代わりになっていた。引越し業社の大量のダンボールが壁際に寄せられていて、中には冬物の服やバッグなど、雑多なものが箱ごとに分けられていた。

 その隣の部屋、三部屋の真ん中に位置する六畳もない部屋はスマイルの書斎らしい。ドアの正面にある壁に窓があり、窓の真下に机があった。ドアから見て右側の壁と机の間には本棚があり、ぎっしりと書類や書籍が収まっている。

 机上に数枚のA4サイズ紙が置かれている。ざっと目を通すと、数十名の人物の住所が印字されていた。フッターによれば、これは六月二十七日に印刷されたようだ。

 机の天板下にある抽斗を見ると、最上段に通帳があった。振込先の名義が紙の人物と一致するものが多かった。

 スマイルは脅されていたのだろうか。それにしては、振込先の数が多い。それに、彼を脅すような命知らずの人間がいるとは考えにくい。

 他の抽斗の中も確認した。二段目は文房具、三段目には封筒が一つ入っていた。

 白い横長の封筒。消印日付は、去年の十二月某日。差出人は田山たやま真美まみとある。既に封が切られているから、スマイルは中身を読んだのだろう。そして、捨てることなくとっておいた。その意図が気になり、住居に足を踏み入れるよりも後ろめたさを感じながら便箋を取り出した。

 定型文のあと、気になる文が続いた。


『もうお金は送ってこないでください。毎月口座にお金が振り込まれる度に死んだ彼とあなたを思い出します。その度にあなたへの恨みが湧いてくるんです。私もわかっています。あなたは悪くない。怪人がいなければ、戦闘の巻き添えになることもなかったと。あなたが怪人を倒さなければもっと多くの人が死んだのだと。頭ではもうわかりきっています。だから、もうあなたを恨むことに時間を使いたくない。もう終わりにしましょう。あなたが今、どんなに辛いかも他の人よりはわかるつもりですから。お互いのために終わりにしましょう』


 戦闘の巻き添え。

 ということは、田山真美という人物は、スマイルと怪人の戦闘によって大切な人を失ったのか。亡くなったのが真美の夫だろう。

 もう一度紙を見ると、真美の名前があった。手紙の住所とも一致する。スマイルは自身が巻き込んでしまった者や、その遺族に送金を行っているようだ。

 しかし、なぜ最近になって被害者や遺族の個人情報をプリントアウトしたのか。それがわからない。本棚を見る限り、印刷した紙はファイリングされて収納されている。となると、遺族の情報は必要があるから机上に出したままにした、と考えるのが自然だ。

 理由を突き止めようと、ファイルの中身をざっと見てみたが、有益な情報は得られなかった。

 二階の最後の部屋は寝室だった。キングサイズのベッドが置かれている以外は目立つ家具はない。夫婦二人でも持て余しそうなサイズのベッドにスマイルが一人で寝ていた。一年前の悲劇から生まれた空白がどれほど彼の心を痛めつけたのか。

 書斎にあった紙については骨刃警視の意見ももらおうと、一階に戻った。

 骨刃警視の姿を探して西側から部屋を見た。彼女はリビングの隣りにあるキッチンの棚をがさこそ音を立てて調べているところだった。


「実は二階にあった書斎でこんなものを」

 通帳、リスト、手紙を骨刃警視に手渡した。

「……個人情報に、送金記録、被災者からの手紙か。意味深。ただ残念なことにリストの中に四英傑、道上、乾と近い人物がいるかどうかは現時点ではわからない」


 熟読した骨刃警視は早口で話したあと、天井に視線を移した。


「そうだ、ちょっと気になることがある。玄関に行くよ」

 玄関までついていくと、玄関扉のガラス部分が布で塞がれ、真っ暗になっていた。

「これは、骨刃警視が?」

「そう。この家の近くには街灯もなくて、ポーチライトもつかないから、外からの明かりがなくなるとこんなに暗くなる。廊下の照明をつけてもこの暗さ。さすがに不便さを感じない? どうして電球を交換しなかったんだろう」

「懐中電灯とかスマートフォンのライトで照らしたりしたんじゃないです?」

「いちいちそんな手間をかけるくらいならネットで注文するものなんじゃないの、世の中の人達は?」

「まあそうですね、今は買いに行く手間も省けます。ああ、必要に迫られなかったとか? 休養中は夜出歩かなかったとか」

「必要なかった、か」

 そう反芻すると、骨刃警視がはっとした顔つきになった。

「彼はこの暗さでも見えていたとしたら? 乾が照明を誤って消したとき、よろけて消したとスマイルは言った。見当をつけて言ったんじゃなく実際に見ていたとすれば?」

「スマイルに暗視能力があるなら、毒公と道上があのタイミングでサマエルを入れることはできないですね」


 暗視ができるなら、何者かが手を伸ばしコップに何かを入れようとする姿も見ていたことになる。誰だって何をしたのか訊くだろう。しかし、スマイルはあの場で一言も言及していない。


「そうなると、手段はともかく犯人はいつスマイルのコップにサマエルを入れたんでしょう? 劇毒であれば、摂取してすぐに倒れますが、今回は飲んでも能力発動のときまで毒の効果に気づかないですから、絞り込むことすらできません」

「静かな毒、か」

 彼女は呟いたあと、目を見開き、舌打ちして、

「こんな単純なトリック、どうして早く気づかなかった」

「わかったんですか?」

「姑息なトリック。犯人も一人に絞れた」

 自嘲気味に笑い、斜め下に視線をおろした。

 ゆっくりと僕の方を見て、

「スマイルはソーマを

 と、告げた。


 サマエルを飲んでいない、とはどういうことなのか。実際に、怪人の攻撃で死亡したのだ。弱体化していたのは事実だろう。

 疑問を察したのか、骨刃警視が補足する。


「サマエルがスマイルの体内に入ったのは間違いない。ただ、飲ませるという手法は使っていない。極細の注射針をスーツに仕込むとか、そういう別の手法で体内に入れたんだと思う。コップにサマエルを入れたのは他者に濡れ衣を着せるためだけの行為だった」

「ですが、そうだとしてもコップに入れるタイミングなんて――そうだ、ある。ありますね、一度だけ」


 犯人の姿を思い浮かべながら、骨刃警視と目を合わせた。過去のつまらない嘘まで自白しそうになるほど、その瞳に惹きつけられる。

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