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 新宿――国際英雄機関本部の前に来ると、田舎者のように見上げてしまう。

 外壁一面に無数な鴉が羽を拡げているような漆黒のビルは鴉楼からすろうと呼ばれ、国内の建造物の中で最高峰の三百メートルを誇る。寄せ木細工をモチーフにした鴉楼は夜のライトアップで芸術点が上がるが、今は真昼間だ。

 生まれも育ちも東京だが、この場所に来ると気持ちは修学旅行中の中学生と変わらない。日本だけでなく世界を救い続ける英雄達がここに集結していると思うと胸に熱いものが込み上げる。

 湿気たビル風がびゅうと当たり、骨刃警視の髪が乱舞した。


「成金趣味過ぎてむかつく」


 顔にかかった髪を鬱陶しそうに払いながら、警視が冷たく言い放った。真昼の太陽を反射する鴉楼はそんな言葉には揺らがないとでもいうように堂々たる威厳を主張していた。


「なんてこと言うんですか。皆が憧れる、シックでモダンなビルでしょう?」

「建設資金の出どころを考えて。亜人バブルで儲けた実のないお金じゃん。どれだけデザインを凝っても、発注した人間達の性根が透けて見えて嫌。展望台でも置くようなフロアに部屋がある奴もいるんだよ。ずっと人を見下していたい気持ちのあらわれ」

「それって、四英傑のことを言ってます? そんなことを言っていいんですか?」

「いいのいいの。スマイルとか氷妃は別だけど、有毒夫妻はもう戦闘に参加すらしない。そんな人達に敬意を払う必要ある? この前は、ヒーローと職員の健康診断用の血液を紛失したばかりだし、機関は気を抜きすぎなんだって」


 昨年の怪人討伐数ナンバーワンに言われると、閉口するしかない。

 同じような不満を持った人間が少なくないのも事実だった。

 ヒーロー業界は世界で一番に勢いがあると言ってもいい。戦闘をドローンで撮影して全世界に配信するサブスクリプションサービス『HEROTube』の利用者はスマートフォンを持つ人間と同程度で、国内外の軍需企業は亜人用の武器等に飛びついて莫大な利益を得た。

 それらの権利を横断的に取得しているのが国際英雄機関だ。日本は世界初の亜人を有する国であり、亜人の八割近くが日本にいるため、東京に国際英雄機関の本部がある。

 たかが二十年足らずでの急速なマーケット拡大。この波に乗れなかった者達は恨みや妬みを抱え、ざらついた感情がヒーローに向くこともしばしばだ。

 ただ、骨刃警視が非難するのは嫉妬からではない。彼女が亜怪対に所属する警察官として活動することを決めたのは、Ⅰ種試験を受けた彼女自身だからだ。

 警視の言う通り、機関の人間は成金だらけなのかもしれない。彼女の洞察力や推理力が警察庁のインテリの中でも群を抜いているからこそ、気づかなくてもいい業に気づいてしまうこともあるのだろう。

 骨刃警視の横顔が憂いを帯びているように思えた。惹きつけられるようにじっと見つめていると、彼女は唐突にエントランスに向かって歩き出した。彼女は僕を省みずにICパスをタッチして、銃携帯を許可された十人の警察官と二名のCランクヒーローが常時警備するセキュリティゲートを抜けた。

 鞄の中から以前発行したパスを取り出し、警視の乗ったエレベーターの扉が閉まる寸前で滑り込んだ。

 指定された十六階に移動すると、スーツ姿の男性が二人、エレベーターホールで待ち構えていた。長身で眼鏡を掛けたグレーヘアーの男性が運営本部長の道上どうじょう列児れつじ――元は財務省の局長まで登り詰めた男だ。隣の中肉中背の男が副部長のいぬい明成あきなり。大手広告会社出身の彼は、浅黒く日焼けした肌が襟の内側にまで見える。

 国際英雄機関の事務方ワン、ツーといえよう。上に総長と副総長がいるが、元衆議院議員の老翁が当てられていて、そちらはお飾りというのが実情と聞いている。

 僕らに向かって、道上が腰を折ることなく儀礼的に謝った。


「すみませんね、暑い中。お話は伝わってるとは思いますが、直接口頭で伝えておきたい事柄もありまして」

「機密情報ということでしょうか? その手の情報の扱いには慣れていますから安心してください」

「機密というほどではありません。今回の打ち合わせにはスマイルとの顔合わせを兼ねているのです」


 使い込まれた扇子で顔に風をぶつけながら、乾が付け加えた。

 道上と乾の案内に従い、長い廊下を行くと、突き当りに大会議室があった。道上がドアをノックすると、爽やかな声が帰ってきた。

 開かれたドアの向こうはSF映画に出てくる宇宙船内のような雰囲気の会議室だった。中央にある、円形に連なったテーブルの一つにスマイルはいた。立ち上がり、両手を広げて歓迎を示した。

 立ち上がると、さほど屈強な体躯でないことがわかる。シャツの下にある筋肉はさり気なくついている程度で、すれ違っても世界最強だとは気づかないかもしれない。

 小学生のときのテレビに釘付けになった記憶とリンクして、胸が高鳴った。笑顔を欠かさないヒーロー。だから、スマイルというヒーローネームがついた。


「ごめんね。私は大丈夫だと言ったんだが、お偉方が頑なでね」

「久しぶり。体調は大丈夫?」

「休養といっても体調は悪くなかったからね。美紀の一周忌が終わるまで、俗世から離れていたかっただけなんだ」


 骨刃警視は悲しそうにそうと呟いた。

 一年近く前、あの時期はまだ涼しい風が吹いていた。もうすぐ梅雨入りという予報もあり、何となくじめじめとした空気になり始めていたような気もする。そんな日に悲劇は起こった。

 スマイルの本名は佐藤さとう克也かつや。彼がまだ大学生のときに、亡くなった美紀みきと知り合ったというのはよく知られた話だ。美紀は佐藤がヒーローになってからも態度を変えることなく彼を支え続け、彼は結婚を決めた。それからはスマイルの妻として、ファーストレディーのような振る舞いを求められた。彼女はそれを完璧にこなしているように見えたが、負担だったのだろうと思う。

 なぜ人間が亜人となり、怪人となるのか。

 亜人化の原因は『神の寵愛を受ける選ばれし人間が、怪人を滅するために神の力を限定的に与えられたため』で、怪人化の原因は『人の心が歪み、魔に魅入られたため』という俗説が溢れ返り、今や通説のように思われている。現在はこの俗説をもとに新興宗教が乱立する有様だ。

 昨年六月二十日、夕方の渋谷、佐藤美紀は怪人になった。

 周囲の人々を喰らった。すぐさま機関がヒーローを派遣し討伐にあたったが、派遣された三名のヒーローは皆死んだ。機関は怪人の危険性を示すランクをAからSに改め、国内トップヒーローに討伐要請を出した。要請に応えることが可能だったのは、不運にもスマイルだけだった。スマイルは怪人になった妻を自らの手で屠ることになった。

 彼は休養を発表し、今まで一年近く音沙汰がなかった。

 当時骨刃警視にも要請があったが、彼女は他の怪人を討伐中だった。結果として夫であるスマイルに妻を殺害させた。彼女はその責任を感じている。


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 打ち合わせは骨刃警視によって淡々と進められた。


「要するに、今後の公式的な活動にだけ同行すればいい、と?」

「そうだ。プライベートには立ち入ってほしくない。これが機関と話し合って落ち着いた妥協案なんだ。こう言っちゃなんだけど、私が誰かに殺害されるなんてことは絶対に起こりはしない。外部の人間に私が護衛されているとアピールできればいいのさ」

「その方がこっちも楽だし。それで、復帰するのはいつ?」

「ええっと、道上君、明後日の公式会見からだよね? その日はそれから四英傑や道上君達と復帰祝いのティーパーティーをするんだっけ?」

 部屋の隅で起立したままの道上が、頷きもせずに「ええ」と答えた。

「わかった。会見のスケジュール、部屋の見取り図を亜怪対にちょうだい。スマイルが死ななくても周りの人間が巻き添えになる可能性は否定できないから、手は抜けない。プライベートでもできる限り人混みにはいかないで」

「肝に銘じる。道上君、骨刃ちゃんが要求しているものを早急に頼むよ」


 バーテンダーに注文するような言葉を最後に打ち合わせは終わった。

 結局のところ、サインをもらうなんて図々しい行為はできなかった。スマイルは美紀の死を乗り越えたように見えたが、それが本心かどうかはわからない。どんな瞬間でも、彼は笑顔を絶やせないのだから。

 もしも、他殺ではない理由で死ぬのだとしたら……。


「スマイルは大丈夫」

 鴉楼を出たとき、骨刃警視に肩を叩かれた。

「復帰して平気なんでしょうか? 復帰と聞いて嬉しくなかったといえば嘘になります。ですが、不安です。あの予言めいたものがあったからなんでしょうけど。あの予言は他殺ではなく、自殺を示唆しているんじゃないでしょうか?」

「スマイルは自分自身を殺めることもできない。肉体の耐性が強すぎるから。最強であるが故に、死ねないってわけ」

「……不自由ですね」


 自分の死を左右する権利がはじめから奪われている感覚は見当もつかなかった。生命の尊厳を一つ奪い取られているような気がした。


「整理は自分の中でできてるはず。私だって、もう慣れた」

「そういうつもりじゃ――」

「わかってる。とにかく、予言が本物だろうが、偽物だろうが、スマイルが死ぬ結末は起こり得ない。私達が注意を払うべきなのは、万が一スマイルを狙う無謀な輩が現れたときに周囲に犠牲者を出さないこと。たったそれだけ。少しは気が楽になった?」

「はい。入念に対策を立てておきます」

「よろしい」


 そう言って、骨刃警視は僕の鳩尾にパンチを入れるふりをした。彼女は照れ臭いとき、僕をどつくふりをする。

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