僕の大切な
青樹空良
僕の大切な
アパートの中に足を踏み入れた瞬間、僕は自分の目を疑った。
家の外から、カレーの香りが漂っていることには気付いていた。どこかの家がカレーなんだな、なんてちょっと羨ましく考えていた。
台所にいた彼女が振り向く。
「あ、おかえり~」
にこにこと上機嫌な顔。
「
「うん!」
僕に向けて満面の笑み。あいかわらず明日香は可愛い。特になんの取り柄も無い僕と付き合ってくれていることが信じられないくらい。
それはそれとして、だ。
「あのさ」
「どうしたの?」
なんとか今の状況を言葉にしようとしながら、部屋の中を見回す。朝出たときとは様子がまるで変わっている。
「……なんかすっきりしてない?」
にっこりと再び笑う明日香。気付いてくれて嬉しいといった顔だ。
「でしょでしょ! 頑張って片付けたんだよ。すごくない?」
僕の目の前には、まるでモデルルームのようにすっきりと片付いた部屋がある。
「この部屋がきちんと片付いたら結婚考えるって、私ずっと言ってたでしょ? なのに全然片付けてくれないから私がやっちゃおうと思ってさ」
「……それは、うん」
「だって、ちょっと気持ち悪かったよ。あ、ちょっとじゃないか。これで、まともになれるでしょ。えっと、リア充ってやつ? 私がいるからとっくにそっか」
何が楽しいのか、きゃっきゃと声を上げて笑っている。対照的に、僕の不安な気持ちは段々と高まるってくる。
「……あのさ」
「うん?」
「その、片付けたっていうやつ、押し入れとかに入ってるんだよね?」
一応、かすかな期待を込めて聞いてみる。
「え? 入ってないよ。全部まとめてクリーンセンターに持っていったから全部綺麗さっぱり。えっとね、私の手で処分場に放り込んできたから、もう安心だよ!」
「……」
僕はもう一度、部屋の中を見る。
そこには見る影も無い僕の部屋。朝出勤するときにはあったんだ。僕の宝物である子どもの頃からずっと大切に持っていたゲーム、漫画、ポスター、ブルーレイボックス。そこまでのコレクターでは無かったから、あまり持っていなかったけれど、だからこそ厳選して買った大好きなキャラクターのフィギュア、それに抱き枕。
「本物の彼女がいるんだから、アニメの女の子のグッズなんていらないでしょう?」
当たり前だと言わんばかりに、なんの悪気も無い顔で明日香は僕の顔をのぞき込んでいる。
足が震えている。
膝から崩れ落ちそうだ。
それなのに、僕は彼女に向かって微笑んでいた。
ああ、カレーがいい匂いだ。
◇ ◇ ◇
明日香は僕のアパートで一緒に暮らし始めた。結婚の準備をするならその方がいい、とのことで転がり込んできたのだ。
幸せな日々。
家に帰ると、美味しい夕飯を作って彼女が待っていてくれる。
ドアを開けると、毎日明かりがついている。
夜だって一人で眠らなくてもいい。
女の子に縁の無い、ただのオタクだった僕を好きになってくれた女の子が、毎日毎日側にいてくれる。
幸せなはず、なんだ。
「どうして僕のことを好きになったの?」
一度聞いてみたことがある。
彼女はにっこりと笑ってこう言った。
「だって、私のこと大事にしてくれそうだから。絶対浮気とかしないでしょ。真面目だし、優しいし」
確かに、浮気はしようとは思わない。それが僕の取り柄と言えば、取り柄なのかもしれない。
でも、それって僕じゃなくてもいいんじゃないのか? とは聞けなかった。それでも、側にいてくれるのならいいと思った。
◇ ◇ ◇
今日も僕は明日香の待つアパートへ帰る。
ドアを開ける。
「おかえり~」
明日香が微笑んで僕を出迎えてくれる。
だけど、やっぱりあの日と同じように、僕の部屋はモデルルームみたいにがらんとしている。いつも綺麗で無駄が無い。
僕の好きだった、アニメのグッズなんて一つも無い。それでいいと思っていた。明日香が言ったように、明日香がいればあの娘たちはもう……。
下を向いて、ぎゅっと拳を握る。
「どうしたの?」
様子がおかしいことに気付いたのか、明日香が僕の顔をのぞき込んでくる。
なんでもないと言いたくて、言葉が出てこない。
何度か、言ってみたことがある。趣味のものを少しくらいは部屋に置いてもいいかと。その度に、なぜそんなものが必要なのかと罵られ、否定されてきた。僕は明日香と離れたくなかったから、それをいつも受け入れてきた。それが一番の幸せだと思おうとしていた。
元々、自分の意見を言ったり、怒ったりするのが苦手だというのも、きちんと気持ちを伝えることが出来ない理由でもあった。
でも、僕はもう、
「別れてくれないかな」
「え?」
顔を上げると、驚いたような明日香の顔があった。
「結婚の準備だって進めてるのに? もしかして、他に好きな人でも出来たとか?」
「まさか、僕が絶対に浮気しないって言ったのは明日香だろ」
「なら、なんで?」
怒りに満ちた目で僕を見上げる彼女には、どれだけ説明したって絶対にわからない。僕はもう、そう悟っていた。
だから、僕は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
あの日々はもう戻ってこない。
彼女に捨てられてしまったものをもう一度買い集めようとしても、すでに販売終了になってしまっていて手に入らなくなってしまったものもある。それでも、もう一度あの部屋を取り戻そうと、僕は必死になった。
これまでの僕を作っていた大切なものたち。
そう、僕自身の大切なものを取り戻すために、今度は僕が彼女を捨てたのだ。
僕の大切な 青樹空良 @aoki-akira
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