第3章 葵:泳ぐ
第39話
目の前に差し込む光のある方を見上げる。目を瞑ってしまうと、どちらが上かわからない。それでも手を動かせば、身体は望む方向に進むことができる。前へ、上へ、というのは目標がはっきりと見えている時だけだ。目の前に何も見えなければ、どっちの方向に進んでいるかなんてわからない。
ほんの少しだけ目を開ける。差し込む光の量が多い方が上なんだろう。でも、そもそも光の多い方に進みたいんだっけ。光が多い方に進むことが正解なんだろうか。光は、ここでは真っ直ぐ入って来ない。ゆらゆらと周りのものを反射させて、段々と視界をぼやけさせてしまう。私は今、何に向かって進んでいるのだろう。
それでも、私はこの景色が好きだ。実体がありそうで、でもぼやけて幻にも見える。そんな中途半端な世界。確実に見えるものは、何もない。繋がりがあるようで、ふとしたことであっさりと切れてしまうような世界。
私が生きている世界も、こんな中途半端なのかもしれない。
だから、私のようなものでも生きていける。
何者にもなれるし、何者にもなれない。
つまり、何者でもない。
私は、あの時から、ずっとこんな世界をさまよっている。
光が見える方向に人の影が見える。美海が私を呼んでいるのだと思うが、水中では聞こえない。もう少しプールの中に潜っていたかったのに。
「葵、そろそろ集合だから上がってってさー!」
水から上がると、いろいろなものがはっきり見える。見えすぎて、困ることもある。本当は見えない方がいいものだってたくさんある。それには目を瞑るしかない。
見えるだけではない。水中では感じなかったものがハッキリと感じられてしまう。
水の中では浮力があるから、泳ぎさえ覚えれば好きなように動き回ることができる。 でも水から上がると、ずっしりと重力が身体にのしかかってきて、まるで柔道の寝技をかけられているみたいだ。あ、もちろん実際にかけられたことはないから、テレビを見ての想像だけれど。
と言って、水の中に長い時間潜っていられるわけでもない。ヒトは地上で重力に抗って暮らすように身体ができている。それなのに、地上では私の身体は私自身の重さを支えきれない。
特に、プールやお風呂から上がった後は、身体が重く感じる。浮力に慣れてしまったからだろうけど、足だけじゃなく手の動きも重い。だから着替えにも普段より時間がかかってしまう。
私は両足を動かすことができない。けれども泳ぐことはできる。両手と、腰を使って泳ぐからそんなにスピードは出ないけど。
それでも、水の中は身体が軽く感じられるから、地上よりは自由に動くことができるという気持ちになってしまう。
水の中で、軽くなった身体でずっと暮らせないかな・・。
そして、音も聞こえてしまう。水中では会話が難しい。口の動きや身体を使って相手に必死に伝えようとしてもうまく伝わらない。でも地上では、勝手に話や音が入ってきてしまう。好まない音はすべて雑音に聞こえてしまい、私の世界を閉ざす。
私がこういう身体だからか、ハッキリとした言葉に聞こえる音でも、雑音に思えることもある。
いや、身体のせいでは無いな。きっと私が聞きたく無いだけなんだ。
水中は温度は一定だと思われているが、昼と夜で、夏と冬で、全く温かさが変わる。ある部分だけ温かくなることがあって、その部分を追っていくと、まるで風が吹いているかのように水が動いていることがわかる。
水の中では、私の身体はあらゆる遠くとつながっているように感じられ、どこにだって想像を回らすことができる。でも水から上がると、感覚は私とそれ以外のものとを区別して、嫌でも私の世界は私だけのものではなくなってしまう。。
「葵!行くよ!お腹空いたからカフェに寄る?」
美海が私の手を引いて、私を地上に引き戻す。
「うん、いいね!今行くよ!」
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