第24話

「わからないなら、わからせてあげる!」

 ぼんやり考えていたところに、葵の車椅子がものすごい勢いでこちらに向かってきた。

 あー、このまま叩かれる、と思って咄嗟にハンドルを切り返す。

 でも葵の車椅子を避けきれず、車椅子同士激しくぶつかってしまった。

 どちらも重量があり、強力なモーターで全速で動いていたから、葵の車椅子が跳ね返って柵に猛烈にぶつかってしまった。

 葵は車椅子から飛び出して、柵を片手で掴んで宙ぶらりんになっている。

 展望台は5m以上の高さがあり、葵がこのまま落ちれば大怪我をしてしまう。運が悪ければ死んでしまうかもしれない。

 私は必死に柵の脇に車椅子をつけてロックし、身体を柵に預けて左手を葵に伸ばした。

 一瞬、迷いがあったけど、葵も必死に私の左手を捕まえようとしている。


 動け!動け!

 腕なんか千切れてもいいから、こんな時くらい動け!

 友達一人救えないなんて。

 葵の顔が、だんだんと諦めていくような、笑みを浮かべた表情になってきた。

 ダメ、こんな未来は嫌だ!

 もう一度、私は左手に力を込めて伸ばした。

 少し腕が動いた感覚があった。その瞬間葵の表情が変わり、もう一方の手で私の左手を必死に捕まえている。

 でも、いつまで私の左手は耐えられるだろう。葵を守り切れるだろうか。

 それでも、私の左手は葵を離さない。全身に力を入れて、葵を捕まえ続ける。まるで、私じゃなく、左手が自分の意思で葵を捕まえているみたいだ。

 葵もそれを感じている。

「紬、あんたの左手、力が入ってるよ」

 今度の笑みは、あきらめの笑顔ではない。


 絶対離すもんか。

 葵が柵から手を離し、両手で私の左手を掴んだ。

 これで私の左手が力尽きたら、もう葵を支えるものはない。

「葵・・」

 葵は私を信じて柵から手を離したんだ。

 もう、左手の感覚はない。

 葵は、こんな状況なのに、私を信じて笑っていてくれる。

 しかし、葵の顔が急に驚きの表情に変わった。


 え、もうダメなの?

「紬!」

 そう悲観的になった瞬間、背中から声が聞こえた。

 ああ、眩さんだ。顔を見なくてもこの声ならわかる。透き通った、よく通る声。私を安心させる声。

 眩さんが飛び込んで来て、葵の手をつかんで柵のこちら側に引き寄せた。

 その後ろから、バンドのメンバーが走って来て、葵を引っ張り上げた。

 私は、その様子を見終えて、車椅子にへたり込んでしまった。


 それからのことは、あまり覚えていない。

 気がついたら、病院のベッドの上だった。

 隣のベッドには、葵がいた。まだ眠っているようなのか、目を瞑っている。

「葵・・。ごめんなさい。私のせいでこんな目に遭わせてしまって・・」

 無意識に、葵に手を伸ばすと。葵が目を開けてこちらを見ていた。

 そして、葵も私の手を取って握ってきた。

「どう、紬?落ち着いた?」

 葵は、さっき起きた事など何もなかったかのように冷静だ。

「うん、大丈夫。ごめんなさい」

「脊損患者は、両腕の力が強いのよ。自分の身体を持ち上げなきゃ行けないから、日頃から鍛えているの。知らなかったでしょ?」

「うん・・」

 だから水泳もやってるのか・・。

「それはいいんだ。それより」

 葵は、一度間を開けてから言った。

「紬、手が伸びてるよ」

 葵が私の手を握っている。そして繰り返し力を入れてギュッと握ってくる。

 私はそれに応えるように、握り返す。指先も動いている。

「葵・・」

 私は、葵の手を何度も握り返しながら、泣き出してしまった。


 私が泣き止んだ頃、葵が手を離した。

「そろそろ人を呼んだ方がいいかと思うけど」

「うんそうだね」

 私の顔は泣いたり笑ったり、忙しい。

 葵がコールを押すと、看護師と小雪先生が入ってきた。

「目が覚めた?気分はどう?」

 看護師がバイタルを見て、これなら問題無さそうです、先生を呼びますねと言って部屋から出ていった。

 小雪先生は、病室に入ってホッとした表情を見せた。

 医師もすぐにやって来て二人を診察し、特に問題がないことを確認してから私に尋ねた。

「左手が動いたと聞いたのだが、今動かせるかな?」

「あ、はい」

 恐る恐る左手を動かすと、私の意思通りに動いている。手首も指も自由だ。

「うん、動くようになったね。これはよかった」

 よかったけど、どうしてかな?

「また元に戻って動かなくなることはありませんか?」

 私より先に、葵が質問した。

「それは、はっきりとはわからないよ。あるかもしれないし、ないかもしれない。でも今動いていることだけは確かだ」

「はい、そうですね」

「先のことはなかなかわからないから、それで不安になる時は、今を信じたまえ。自分が信じられなくなったら、自分を信じてくれる人を信じなさい。それは、案外すぐそばにいるもんだよ」

「はい」

 先生の言葉を噛み締めていると、先輩方が恐る恐る病室に入ってきた。

「紬ちゃん、吉川さん、目が覚めたの?」

「はい」

「よかった」

「はい」

 短い言葉のやり取りだったが、十分先輩方の気持ちは伝わってきた。

「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。それと」

「どうしたの?」

 あゆみさんが聞き返してきた。

「これからも、バンドのメンバーでいさせてください」

 4人がそれぞれを見て、私に答えた。

「もちろんよ!」


 練習に復帰した私は、今までのことがウソのように、滑らかに左手で鍵盤を弾くことができた。

 これで無事にグルーヴを迎えることができる。

「じゃあ、行くよ!」

 私は、生きていくのに多くの迷惑を皆にかけている。でもいいんだ、それで。

 それが人間だから。

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