第3話 甘い匂い

 イルネスは一晩働いた体に熱いシャワーを浴びて軽く朝食を取った後、ソフィアの部屋に向かった。

 ドアをノックし彼女の返事を聞いてドアノブを握ると、毎日通い慣れたこの部屋のドアノブはイルネスを待ち焦がれていたように手のひらに吸い付き、軽く手首を捻るだけでドアは何のわだかまりもなく空気の襞を揺らすほどの軽さで開いた。ドアの隙間からアレイスの魔力の甘い匂いが漂ってくる。魔力に香りはないらしいのでイルネスの頭が勝手に生み出した幻嗅のようなものだろう。

 ソフィアはベッドに腰掛けてイルネスを待っていた。彼は許しを請うまでもなくあらかじめ定められた運命に従うようにソフィアの隣に座り、彼女の柔らかい頬に自分の頬を寄せながら愛しい体を抱き寄せた。ソフィアもイルネスの痩せた背中を抱き締め、何の合図をするわけでもなく静かにアレイスの魔力を注いだ。

 やはりイルネスには甘い匂いを感じた。花やフルーツの類の匂いだった。アレイスは多幸感を得やすい魔力でもある。痛みから開放される歓びの香りなのかソフィアと過ごす幸福の香りなのか清潔にした体の石鹸の香りなのか、病身の頭ではどれが由来ともつかなかった。アレイスの魔力がほのかなぬくもりを持って体の末端まで巡っていく。

 魔力を注ぐ時、特別体を触れ合わせる必要なはない。それでも二人は魔力を注いでいる間、互いを抱き締め合っていた。誰にも邪魔されずに二人きりで過ごせる時間はそう多くない。朝のアレイス施術からの流れで午後の睡眠も共にすることはあるが、夕方にはもう仕事の準備をしなければならないし、夜の仕事の間は顔を合わせない。二人の気持ちを知っているバーの人間は二人の邪魔をしなかった。特に二人の主であるゴーベールは囚われの身でありながら日々健やかな若葉のように真っ直ぐ情愛を育てていく二人を注意深く観察し、その情愛にどんな無慈悲な介入していこうか胸を躍らせながら画策していた。こんなに美しいものを一瞬で壊してしまってはもったいない。計り知れないほどの時間と労力を使ってじわじわと追い詰め、二人の心に生涯残る傷を負わせてやりたい。たとえ深手を負ってもこの二人なら己の運命から逃げず峻厳な人生をひたむきに進んでいくだろう。その生き様を自分の手で演出し、見届けてやりたい。そんな願望を持っているのだった。

 ソフィアのアレイスを受ける客は老若男女様々で、まだ幼い子供や女の客ならいいが、男の客はアレイスの多幸感から気持ちを昂らせソフィアに手を出そうとする者もいた。客とソフィアを二人きりにしないよう監視も付けても、興奮した客は一瞬の隙を虎視眈々と狙っている。手を引っ張られて抱き竦められたら細身のソフィアは逃げられない。ゴーベールの所有物である彼女に金も払わずに手を出せば粛清の対象になる。理性を失った客にそう言い聞かせても承知しない。そうした客は粛清役であるクレドが地の果てまで追い掛けて命を奪う。クレドは人を殺めることに何の苦悩も抱かない男だが、無用な犠牲は誰にとっても後味の悪い結末になる。自分が死への引き金となることに折々胸を痛めながら、ソフィアには死に行く人を助ける力はなかった。彼女に無償で手を出していいのはただ一人、イルネスだけだった。

 アレイスの施術が終わってもイルネスはソフィアを抱き締めていた。彼は腕を緩めて体を離すと、艶を放つ黒い瞳で吸い込むようにソフィアを見つめ、彼女の頬を手のひらに包み、そっと引き寄せて唇を重ねた。彼女の青い髪がイルネスの指に触れる。男娼として多くの客の体に触れてきたイルネスにとって、こうしたことは呼吸をするように慣れ切ったことだったが、思い人の肌は別格だった。触れたくても触れたくても自由に触れられない神格化された肌だった。イルネスは再びソフィアを引き寄せて抱き締めた。

 ソフィアがゴーベールに囚われて初めてこの地下へ来た時、ゴーベールは容姿の整ったまだ幼い彼女を娼婦にすることも考え、指導役としてイルネスを宛てがった。未熟な子供を買いたがる腐乱した大人がごまんといることはイルネスも実体験からよく分かっていた。彼はゴーベールの思惑を知りながら自分より幼い子に手を出すことはできず、まずはこの地下での生活のルールを教えていった。家族を失った心の傷、先の見えない生活への不安、慣れない仕事と人間関係。そうしたものを察知するたびにイルネスはソフィアに寄り添って話を聞き、孤独を取り除いていった。初めてイルネスと出会った時、ソフィアは十二歳だった。孤独な中支えてくれる二つ歳上のイルネスに徐々に心を開き、十三歳になる頃には恋心が芽生えていた。自由のない囚われの地下生活で二人が恋仲になることは自然な流れだった。未体験のことに恐怖を抱きながら恋情に突き動かされて少しずつ肌も重ねていった。二人が仲睦まじくなって誰よりも喜んだのがゴーベールだった。美しいものほど汚し甲斐がある。ゴーベールはソフィアを娼婦にすることをあっさりと諦め、二人の恋を見守った。

 五年経った今、イルネスは病が進行し、以前のようにソフィアの体を支える力もなくなった。やわらかな愛撫が二人の至上の交わりだった。

 ベッドの上で抱き合っている間に働き疲れた二人の頭上に睡魔が降り注ぎ、イルネスは甘い香りに包まれながらソフィアに寄り添って眠った。イルネスは夢の中でも甘い匂いを感じていた。

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