第2話 支配者
夜明け前の空には夢の中に半分浸かっているような月がまだぼんやりと残っていた。仕事を終えたイルネスは荒廃した瓦礫交じりの町を歩いた。
今夜の客は男娼のイルネスを真っ当な人間として扱ってくれる良心的な人であった。病身を痛め付けるようなこともしなければ凌辱的なこともしない。そうした客は極たまに現れるが、そんな人ほど一度限りの関係で終わることが多く、綺麗な思い出として胸の奥に仕舞われ、時折思い返しては今更届かない過ぎ去った時間を愛しく感じて切なかった。あの客も二度とイルネスを買わないと宣言した。こんな病身ではいつ心臓が止まるかも分からない。あの客とも今生の別れかもしれない。名前すら訊ねなかったことをイルネスは今になって気が付いた。
イルネスの歩くサーチブレスの新市街は悲しいほど傷付いていた。十年前、ゴーベールが亡くなった父親から商売を継承して以降、邪魔者を徹底的に排除しながら事業を拡大し、強大な権力を築き上げた。人命すら軽視する商売方針であらゆる方面から恨みを買い、サーチブレスの新市街は度々攻撃を受けるようになった。それでも金の力で邪魔者を排除し続け住民を盾とし、ゴーベールはこの町を支配している。
国も王も警察も議会も、誰も彼もがこの町を見捨てた。権力を持つ者はみんなゴーベールの手先だった。誰も逃げられない大きな監獄だった。
イルネスはサーチブレスの東に高く聳える旧市街の丘を眺めた。西に広がる低地の新市街からは見えないが、あの丘の向こうには海峡が広がっていて、旧市街の丘は海峡に沿って三日月の形をしていた。あの旧市街の丘だけは攻撃を免れ、ゴーベールの支配も届かない。同じ町でありながらなぜあの区画だけ無事なのか。町民には思い当たる節があった。あの丘にはカネア婦人が住んでいる。薬の知識を持ち、傷付いた人々に自分の集めた薬を分け与えている。ゴーベールとは真逆の振る舞いで町民から密かに支持を集め、たとえゴーベールであろうとも簡単に手出しできない人だった。旧市街の丘が無事な理由は他にもありそうだが、カネア自身が素性を明かさいのでそれ以上は探りようもなかった。
イルネスは旧市街の丘を眺めながら町外れにあるゴーベールの店へ帰った。
ゴーベールの店は表向き普通のバーだが、その地下には孤児となって拉致された少年少女達がゴーベールの『所有物』として捕えられ、あらゆる形で酷使されていた。イルネスもその一人で男娼という望まぬ仕事を負わされている。バーの店員になる者もいれば、ゴーベールに逆らう人間を罰する汚れ仕事を担う者もいた。
昨夕仕事の前にソフィアが施してくれた痛み止めの魔術は幸い一晩切れることなく持ってくれた。朝の痛み止めを施してもらえば日中は痛みを感じずに過ごすことができる。
イルネスはバーの裏口から中に入り、ゴーベールの『所有物』である若者達の住まいになっている地下へ降りた。その階段の先に広がっている談話室では青い髪をお下げにしたソフィアがイルネスの帰りを待っていた。座っていたソファーから立ち上がり、イルネスを迎える。
「お帰りなさい、イルネス」
どんな夜を過ごしても朝になれば必ず彼女はここで自分を待ってくれていた。奴隷のように扱われる男娼のさがを背負うイルネスにとって、彼女の存在はたった一筋の人生の光だった。
病のためにやつれたイルネスの頬にソフィアが手を添える。その一点から全身へ、ソフィアのぬくもりが広がっていく。イルネスも骨ばった手を彼女の手に重ねた。体温と体温が交わり合って頬をあたためる。がんじからめになってどうしようもなかった疲れと緊張がするすると解けた。
イルネスが客の男と一晩を過ごしている間、ソフィアは給仕係としてバーを手伝ったらしかった。今日はアレイスのお客さんはいなかったのだなとイルネスは思った。
ソフィアには肉体の痛みを取り除く『アレイス』という魔力があった。これは怪我や病を治すものではなく、患部の痛みを取り除いて楽にするものだった。ただし、やり過ぎると副作用も出る。扱いの難しいその魔力で傷付いた人達の体の痛みを取るのが彼女の仕事だった。その仕事がなければバーの給仕係をする。彼女もまたゴーベールの『所有物』なので、アレイスの施術には法外な値段が掛かる。サーチブレスが攻撃を受ける度に傷付く人も出てくるが、金の払えない者に施術をすればアレイスを施したソフィアではなく、それを受けた側が粛清されてしまう。無闇にアレイスを掛けるのは危険ながら、目の前の人を助けられないのはつらいことだった。
病に掛かったイルネスの体の痛みを取ってやるのもソフィアの仕事だった。さすがに所有物同士のやり取りで金を毟り取るほどゴーベールも無茶苦茶ではない。イルネスも稼ぎ頭であるから痛みのために仕事ができないのは困る。致し方のない施術なので金は掛からない。朝と晩、一日二回だけアレイスを掛ける。これ以上施しては副作用のためにイルネスの体は余計傷付いてしまう。アレイスの回数や強弱の加減はソフィアに一任されていた。彼女の判断に逆らうことはできない。
仕事終わりの朝は一日二回のアレイスのうち、一回目を受けられるタイミングだった。
後でソフィアの部屋に行く約束をして二人は一旦自室へ戻った。
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