3-4.蜘蛛の糸
「おい陰陽師! これ大丈夫なんだろうな!」
苦しそうにもがいた清正は、時折叫びながら、強く歯を噛みしめていた。
舌を噛み切らないように、実正が無理やり手で口を開かせる。
「いやぁ、ちょぉまずいかもな」
「はあ!?」
「思ったより清正の抵抗力が弱かったか。よっぽど体調悪かったんやな」
「呑気に言ってる場合か! 今すぐどうにかできないのか!」
ちらりと外を見て、靖文が呟く。
「日が昇るまで、もうちょいか……」
僅かな間思慮するように目を伏せ、靖文が実正に指示を飛ばす。
「清正を
「媒介!?」
「なんでもええねん。思い出の品とか、清正が大事にしてる物とか。強い思い入れのあるものなら、夢に介入できる」
それを聞いて、実正は迷わず己の鋏を取り出した。
「これを」
「……君、ごっつい自信やなぁ……」
「俺
不愉快そうな靖文を尻目に、清正に鋏を握らせる。
――戻ってこい。負けるな。俺がいるから。
「俺のところに、帰ってきて」
◆◇
叫び続けて、声は嗄れた。見開いた目は乾いて、もう涙も枯れ果てた。
カチカチと鳴る歯の隙間から、荒い息が零れる。
辛うじて手と膝をついて体を支えているものの、頭を持ち上げることすら億劫だった。
一度揺らいだ精神は、すぐには立て直すことが難しかった。もうあと僅か、ぎりぎりのところで耐えている。
あと一押しで崩れてしまう。それは怪異にも伝わっている。闇が楽しげに嗤った。
影がその手を伸ばす。獲物を絡めとる蜘蛛の糸のように、しゅるしゅると。
逃げる気力もない。このままでは、捕まる。
歯を食いしばったその時、風を切る音が聞こえた。何事かと眩暈をおして顔を上げると、銀の糸が降ってきた。
――ギャアアアア!!
耳障りな悲鳴を上げて、影が退く。その様を、呆然と眺める。
目の前にあったのは、銀色に輝く鋏だった。
それは俺に伸びていた影の糸を断ち切って、地面にしっかりと突き刺さっていた。
「……はは」
銀の糸だと思ったのは、鋏の落ちてきた軌道だ。
闇の中にあって、それは眩しいほどに輝いていた。
「お前、こんなとこでも、主張強すぎなんだよ……」
どこにいても目立つあの風貌が、鮮明に瞼の裏に甦る。
「――
鋏を地面から引き抜いて、そっと撫でた。
「やっぱり綺麗だな、お前」
初めて会った時から、ずっと。
「会いに来てくれて、ありがとうな」
枯れたと思った涙が一筋零れた。
それは鋏を伝って地面に落ちると、波紋のように広がり。
一面の闇が、晴れた。
◆◇
「――やっと尻尾出しよったで!」
清正の体からゆらりと滲み出た影の端を掴んで、靖文がずるりと引き剥がす。
暗く淀んだそれは雲のようで、はっきりとした形を持たなかった。
闇が広がって、部屋を覆い隠そうとする。
それに靖文は全く怯まず、迷いのない動作で印を組んだ。
明瞭な声が、力を持って発せられる。
「オン・アビラウンケン・バザラダトバン!」
大日如来の真言。
昇り始めた太陽の光を受けて力を増したそれは、清正を侵食していた闇を打ち払う。
太陽に焼かれて、影がけたたましい悲鳴を上げる。じりじりと消えゆく最後の時まで怨嗟の言葉を吐きながら、やがて影は完全に霧散した。
淀んだ空気が晴れていく。結界が正常に機能しはじめたのだ。
「
実正が清正の顔を覗き込む。
未だ目を覚まさないものの、穏やかな表情にほっと安堵の息を吐く。
「とりあえず、これで大丈夫やろ。あとは清正の体力が回復すれば、寺も元通りや。それまでは」
べし、と靖文が清正の額に護符を貼った。
「っおい!」
「これでも持たしとけ。また妙なのにつけ込まれたら敵わん」
雑な動作に声を荒げたが、この男も清正を心配しての行動だ。
それがわかっていても、どうにも癇に障る。
「……会っていかないのか」
「目が覚めた時にわしがおったら、無駄に体力使うやろ」
「嫌われてる自覚はあるんだな……」
「別に好かれたい思てないしな。一生懸命歯向かってくるのも、ちっこいのが睨み上げてくるのも、可愛えもんやで」
その言い草に思わず清正を背に庇う実正。
靖文はそれを楽しげに眺めるだけだった。
「ほなな~」
一切気にする素振りもなく、靖文は平然と出て行った。
戸の音がして、完全に庫裏から出て行ったことを確認すると、実正は力を抜いた。
「最後の最後でやっぱ祓うとか言われなくて良かった……」
清正は無事助けられた。いつ靖文の気が変わってもおかしくなかった。
靖文と真正面からやり合うとなったら、実正には勝てる自信がなかった。勿論、ただで負けてやる気もないが。
一応は、側にいることを認められた、ということだろうか。今後どうなるかはわからないが、すぐに祓われる心配はしなくて良さそうだ。
清正の額に貼られた護符を一度剥がして、少し考えた後、枕の下に入れた。
乱れた髪を手で簡単に整えながら、寝顔を眺める。
清正が目を覚ましたら、靖文のことをなんと説明しよう。
助けられたと知ったら、大層嫌な顔をするだろう。
その想像に、実正は一人笑いを零した。
靖文に同意するわけではないが、元気に悪態をついていてくれるなら、いっそ安心だ。
怖いのは、清正が何も言わずに、一人で抱え込んでしまうことだ。
次に会った時。靖文は、頼正のことを話すだろうか。
それを受けて、清正はどう思うだろうか。
話さなければいい。知らなくていい、と実正は思う。
今更、父が自分を気にかけていたと知って、どうなるのか。
あの時。家族を全て失って一人になったあの時に、知らされていれば。それは心の支えになったかもしれない。
けれど今、清正は父に捨てられたと既に割り切っている。
心の整理をつけたあとで、もういない人間について聞かされても、それをどう消化すれば良いのか。
当人に何を確認することもできないのに。
そして頼正から清正のことを頼まれたはずの靖文は、清正のことを数年間放っておいた。その事実もまた、知ったところで傷が増えるだけだ。
やっと癒えたのに。今、清正は、この正怪寺で。住職として、怪病治療師としての己を確立している。
震えていたあの人はもういない。全てを呑み込んで、この人は今の場所に立っている。
「もういない人間が……
この人の心の一番深いところに、いつまでも残り続ける
今更、浮き上がってきたそれが。
実正には、憎くて仕方がなかった。
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