3-3.疑心暗鬼

 ――怨めしい。


 誰だ。


 ――ああ、恨めしい。


 誰を。


 ――同胞を祓ったあの男。頼正よ。その血を決して許さない。


 怨嗟の声に脳が軋む。こんなものは聞きたくないのに、耳を塞いでも頭に直接響き渡る。


「――――……」


 子どもが泣いている。歯を食いしばって、はたはたと涙を零している。

 声を押し殺したその泣き方は、あまりに子どもらしからぬ姿だった。

 わかっているのだ。泣き喚いたところで、誰にも届かないということが。駆けつけてくれる足も、涙を拭ってくれる手も、優しく宥めてくれる声もないということが。

 子どもは独りだ。

 子どもの側には、誰もいなかった。


 ――何故。


 どうして。この子どもは独りにならなければいけなかったのか。


 ――誰のせいで。


 置いていかれた。皆子どもを置いていった。

 捨てられた。


 ――誰に。


「……親父、に」


 ――そうだ!


 周囲の闇が揺らめいた。囃し立てるように子どもの周りを取り囲む。


 ――恨めしいだろう。お前の孤独は父のせいだ。


「親父の、せい」


 ――恨め。憎め。呪え! お前にはその権利がある。


「恨む……」


 恨んで、どうなる。憎んでどうなる。呪おうにも、あの男はもう死んでいる。


 ――死人ならば報復を恐れることもなかろう。怨嗟の声をぶつけるがいい。それでお前は楽になれる。


 楽に。

 もう、声を殺して泣かなくてもいいのか。もう、震えながら朝を待たなくてもいいのか。

 誰かを恨めば。この心は、軽くなるのだろうか。


 ――そうだ。こい。こちら側へ。


 囁きかける甘い声を打ち消すように、温かな声が蘇る。


 ――『悪意の中にあっても、お前は、誰も恨むな。憎むな。優しい力の使い方を覚えなさい』

 

「――わかってるよ。じいちゃん」


 子どもの姿が陽炎のように揺らめいて消えた。

 暗闇の中には、今の――大人の俺だけが残った。


「確かに親父は俺を捨てた。だけど、じいちゃんは愛情をもって俺を育ててくれた。おふくろも俺のことを愛してくれてた。俺は愛情がどんなものか知っている。だから一人の時間があっても耐えられた。だから出会えた奴がいる。全てが今に繋がっている。今の俺があるのは、過去の因と縁によるものだから。終わったことを恨んでる暇なんかねぇよ。今俺の側にいる奴を大事にするので手一杯だからな!」


 瞬間光が迸る。

 精神力がかなり削られてよろめいたが、この身を侵食していた嫌なものが一時的に引いた。

 しかし闇を晴らすところまではいけなかった。身を覆う程度の仄かな光を残して、闇の中にはまだ蠢くものがある。


「くっそ……」


 立っていられなくて膝をつく。思った以上に消耗している。

 真綿で首を絞めるようなやり方だ、反吐が出る。

 耐久戦になったらこちらが不利なのは明白だ。長引かせたくなかった。先ほどので仕留められなかったのは痛い。

 夢の中は精神の世界。大した術など使えなくとも気力でごり押しできないものかと思ったが、やはり無理があったか。精神と肉体は繋がっている。体調が万全でなかったことも要因だろう。

 これが患者なら、外部から手助けする方法は知っている。しかし、内部から対抗する手段はそれほどない。

 魂が屈しない限り、この怪異が完全に俺を乗っ取ることはできない。負けはしないが、勝てもしない現状を何とかしなくては。

 弱った俺を折るために、闇は再び語りかける。


 ――頼正が憎くはないのか。


「だぁから……あんな奴……どうでもいいっつの……」


 ――いなくなって尚、お前を孤独にしようとしているのにか。


「あぁ? 死んだ人間に、何ができるって」


 ぼう、と暗闇に浮かび上がるものがある。

 また幻覚か、と舌打ちした。

 相手の嫌な記憶、見たくないと思っているもの、恐怖の対象を見せ続けて精神を摩耗させる。

 例え幻だとわかっていても、無理やりそれを見せ続けられて、正気でいられる者は少ない。


 浮かんだ姿は親父のものだった。恨みの対象を可視化しようということか。

 こんな幻に何を言われたところで。そう思っていたが、もう一人、人影が浮かんだ。まだ年若い、少年と青年の境目ほどの人物だった。

 誰だこいつ。

 これはおかしい、と眉をひそめた。

 俺に取り憑いている怪異は、俺の精神を侵食して幻を作り出している。つまり、俺の記憶になく、俺が想像しえないものは、この怪異には拾えないはずだ。

 ではこの人物はいったい誰なのか。姿を観察して、特徴的な狐目に気づいた。


「――靖文?」


 そうか。こいつは、昔の靖文の姿なのか。

 靖文は親父と親し気に話している。

 何故? この二人は面識があったのか?


 ――これは今お前のすぐ近くにいる者から得た記憶だ。


「ッ靖文が来てるのか!?」


 俺は本気で驚いた。

 靖文が来る理由に全く心当たりがない。まさか、さねが靖文を頼ったのだろうか。

 犬猿の仲だとばかり思っていたが。もしかして俺のために無茶な条件など受けていないだろうか、と内心冷や汗が流れた。

 しかしこの怪異の言葉通りだとしたら、これは靖文の記憶だ。つまり靖文は親父と会ったことがある。何故それを俺に黙っていた?

 会話はほとんど聞き取れない。辛うじて親父の口元が、「頼む」と動いたような気がした。


 ――頼正は、怪異の調伏を頼んだようだな。


「なに?」


 ――お前に近寄るありとあらゆる怪異を退けるように、陰陽師に依頼している。


「……は?」


 そんな馬鹿な。

 冷静に考えれば、怪異が見せる幻が、そのまま真実なわけがない。

 けれど俺は既に疲労が限界まできていたこと、親父とのことを黙っていた靖文への疑心から、怪異の言葉に耳を貸してしまった。


 ――当然だな。お前の魂の清らかさは得難いものだ。何に利用するにも価値がある。怪異に穢されては堪らないのだろう。


「……んなの……もういないくせに……関係ないだろ……」


 ――だが陰陽師は今もお前の側にいる。頼正の意志を継いだ者が。お前の目がない今、あのはどうなっているだろうな?


 どくりと心臓が脈打った。

 あの鉄の臭いが漂う。

 違う。あれは幻だ。さねが、そう簡単にやられるわけ。

 靖文だって、さねと会うのは初めてじゃない。

 でも、俺がいない時に会うのは、初めてかもしれない。

 今、二人は、一緒にいるのだろうか。二人きりなのだとしたら。

 考えるな。考えるな!!


 幻影が姿を変える。今の靖文と、さねの姿に。

 靖文が印を結ぶ。やめろ。祓うな。敵じゃない!

 

 叫ぶ声は届かない。全ての音が消える。

 そしてさねの姿は――砕けた。


 決して濁ることのなかった真白な魂に、影が差した。

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