第三部 呪詛編
3-1.医者の不養生
「
「帰れ……」
「開口一番それかぁ」
頭が痛い。喉も痛い。関節も痛い。体が熱いのに悪寒がする。立派な風邪である。
「無理が続いたからなぁ」
そこから夜間の奇襲、雪の中での戦闘。
病を治療する立場でありながら、病に負けるとは情けない。修行が足りない、と俺は自省した。
「……結構熱いな」
ひたりと額に乗せられた
しかしこの手に無邪気に甘えられる歳でもない。雪女の件で、長いこと
「いいから……お前、帰れよ。仕事あるだろ」
「大丈夫、
「前から思ってたんだが、お前んとこの労働条件どうなってんだ……」
俺の疑問に、
「滅多にあることじゃないんだから、素直に甘えときなよ」
「俺の仕事知ってるか? 自分の看病くらい自分でできる」
「それとこれとは別問題でしょ。水汲むのもしんどいんじゃない? 雑用くらいやるよ」
「……うつるぞ」
「俺は風邪ひかないから平気ですぅ」
自慢げな
正直に言えば、俺だっていてくれた方がそりゃ助かるのだ。
「わかった、もう言わん。ありがとな」
「うん」
なんでお前が嬉しそうなんだか。
安心したせいか、また睡魔が襲ってくる。薬は既に飲んでいるし、とにかく寝た方がいい。俺は欲求に抗わず、そのまま瞼を閉じた。
少しだけ荒い寝息が部屋に響く。それに耳を澄ましていた
すっと目を鋭くすると、取り出した鋏をとすりと
キィ、と小さな鳴き声がして、黒い影が溶けて消えた。
――なんでこんなところに。
声には出さずに眉をひそめる。
寺の結界は、靖文が指摘したように、あらゆる怪異の侵入を防ぐものではない。これは清正の祖父である
兼正亡き後も、結界は機能していた。それは兼正の力だけではなく、清正がこの寺にいることで維持されている。本人の自覚の有無はわからないが。寺の主が弱っている今、結界の機能が落ちているのだろうか。いくらなんでも、こんな低級な邪鬼が入り込むなど。
「早く良くなれよ」
実正は小さく呟いて、清正の髪を撫でた。
人間は弱い。昔に比べたら医療は格段に発展したが、ただの風邪でもこじらせれば死に至ることもある。
健やかであれ。清らかであれ。その心根のごとく。あらゆる不浄を撥ね除ける者よ。
何ものも、あなたの清廉な魂を穢すことはできない。
◆◇
鉄臭い臭気に顔をしかめる。
この臭いには覚えがある。
血だ。
そう認識した途端、手にぬるりとした感触があった。
何に触れたわけでもないのに急に襲ったそれに、思わず手のひらを見る。
赤々としたそれだけが、やけに鮮やかに目に映った。
暗い。そうだ、ここは暗闇だ。何も見えない。なのに何故、この赤だけが、こんなにはっきり。
心臓が痛いほどに胸を叩いている。見るな。見るな。暗闇だ。何も見えやしない。
脳が警鐘を鳴らす。なのに自分の意志とは関係なく、目が勝手にその姿を探す。
この血はどこから来た。
見るな。
この血は誰のものだ。
見るな。
この暗闇の中に、誰が。
見るな!!
「うあ゛……ッ」
続いて飛び出した自分のものとは思えない悲鳴に、頭が割れそうだった。
「――
顔面蒼白で実正は清正の手を握った。
「
――いったい何が起きた。
深夜になって、眠っていた清正が急に苦しみだした。
熱が高い時には悪夢を見ることもある。落ち着かせるように体を軽く叩いていたが、どんどん様子が酷くなっていく。
一度起こした方がいい、と声をかけながら体を揺すったが、どれほど強くしても一向に目覚める気配がない。
さすがにこれはおかしい。医者を呼びに行くべきだろうか。しかし今清正の側を離れるわけには。
葛藤する実正の耳に、小さな「キィ」という鳴き声がした。
――また。
何故こんなものがいる。おかしい。結界が綻んでいるのだとしても、何故清正の側に邪鬼が。
嫌な気配がする。しかしその正体が掴めない。おかしい、ということしか、実正にはわからなかった。
実正にあるのは戦う力だけだ。怪奇な現象の理由を突き止めることは、実正には。
悔しさに歯噛みした時、実正の耳に戸を叩く音が届いた。
――誰だ?
全身の神経を尖らせる。こんな深夜に、しかも清正がこんな状態の時に。
偶然とは思えなかった。
だがかえって好都合だ。仕組んだ者がいるのなら、捕らえて脅せばそれで済む。
鋏に手をかけたまま、庫裏の玄関口まで行く。固唾を呑んで戸を開けば、そこにはつい先日寺を訪れたばかりの陰陽師の姿があった。
「や」
短い一音だけ発して片手を上げた靖文に、実正は露骨に顔をしかめた。
「悪いが今あんたの相手をしている暇はない」
「そんな冷たいこと言うてええのん? わしが必要や思てわざわざこんな真夜中に尋ねて来てやったんに」
「あんた……っ何か知ってるのか!」
胸倉を掴んだ実正の手を乱暴に振り払って、靖文は顔を歪めた。
「ほーんま、躾のなってないやっちゃなぁ。結界の様子がおかしいから見に来てやったんやろ」
「結界……」
「来たら来たで、なんや妙な気配するしな。飼い主になんかあったら、わんこはおろおろするしかないやろなーと思たら、案の定や」
からかうような口調に苛立ちを覚えるが、言い返している場合ではない。
悔しいが、この場で役に立つのは、実正よりも陰陽師の靖文だ。
「……来い」
「おや、吠えるのはもうしまいか」
「あんたみたいなのでも、陰陽師だからな。今は
「……ま、金払いのええ客は好きやで」
互いに腹の読めない視線を交わして、二人は清正のいる私室へと向かった。
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