第三部 呪詛編

3-1.医者の不養生

きよー! 大丈夫か!」

「帰れ……」

「開口一番それかぁ」


 庫裏くりにある私室に上がり込んで苦笑したさねに、俺は布団の中から唸った。

 頭が痛い。喉も痛い。関節も痛い。体が熱いのに悪寒がする。立派な風邪である。


「無理が続いたからなぁ」


 正怪寺しょうかいじに一般人を匿う状況が続き、終始気を張っている必要があった。

 そこから夜間の奇襲、雪の中での戦闘。靖文やすふみの訪問で心身共に疲弊しきったところで、翌日の雪かき。重労働で汗をかいたあとに、冷たく濡れた地面の上での長時間に及ぶ読経。あれがとどめだったように思う。

 病を治療する立場でありながら、病に負けるとは情けない。修行が足りない、と俺は自省した。


「……結構熱いな」


 ひたりと額に乗せられたさねの手に、目を閉じる。冷たさが心地良い。

 しかしこの手に無邪気に甘えられる歳でもない。雪女の件で、長いことさねを寺に留めてしまった。


「いいから……お前、帰れよ。仕事あるだろ」

「大丈夫、美代みよさんには言ってあるから」

「前から思ってたんだが、お前んとこの労働条件どうなってんだ……」


 俺の疑問に、さねはにこりと微笑んだだけだった。おい答えろ。本当に大丈夫なんだろうな。


「滅多にあることじゃないんだから、素直に甘えときなよ」

「俺の仕事知ってるか? 自分の看病くらい自分でできる」

「それとこれとは別問題でしょ。水汲むのもしんどいんじゃない? 雑用くらいやるよ」

「……うつるぞ」

「俺は風邪ひかないから平気ですぅ」


 自慢げなさねに、俺は溜息を吐いた。これ以上言っても無駄だろう。

 正直に言えば、俺だっていてくれた方がそりゃ助かるのだ。


「わかった、もう言わん。ありがとな」

「うん」


 なんでお前が嬉しそうなんだか。

 安心したせいか、また睡魔が襲ってくる。薬は既に飲んでいるし、とにかく寝た方がいい。俺は欲求に抗わず、そのまま瞼を閉じた。



 少しだけ荒い寝息が部屋に響く。それに耳を澄ましていた実正さねまさは、おもむろに懐に手を入れた。

 すっと目を鋭くすると、取り出した鋏をとすりと清正きよまさの顔の横に突き立てる。

 キィ、と小さな鳴き声がして、黒い影が溶けて消えた。


 ――なんでこんなところに。


 声には出さずに眉をひそめる。

 寺の結界は、靖文が指摘したように、あらゆる怪異の侵入を防ぐものではない。これは清正の祖父である兼正かねまさが張ったもので、そうしていたと思われる。その分探知には優れており、雪女の接近にも気づくことができた。

 兼正亡き後も、結界は機能していた。それは兼正の力だけではなく、清正がこの寺にいることで維持されている。本人の自覚の有無はわからないが。寺の主が弱っている今、結界の機能が落ちているのだろうか。いくらなんでも、こんな低級な邪鬼が入り込むなど。


「早く良くなれよ」


 実正は小さく呟いて、清正の髪を撫でた。

 人間は弱い。昔に比べたら医療は格段に発展したが、ただの風邪でもこじらせれば死に至ることもある。

 健やかであれ。清らかであれ。その心根のごとく。あらゆる不浄を撥ね除ける者よ。

 何ものも、あなたの清廉な魂を穢すことはできない。


 

 ◆◇



 鉄臭い臭気に顔をしかめる。

 この臭いには覚えがある。

 血だ。

 そう認識した途端、手にぬるりとした感触があった。

 何に触れたわけでもないのに急に襲ったそれに、思わず手のひらを見る。

 赤々としたそれだけが、やけに鮮やかに目に映った。

 暗い。そうだ、ここは暗闇だ。何も見えない。なのに何故、この赤だけが、こんなにはっきり。

 心臓が痛いほどに胸を叩いている。見るな。見るな。暗闇だ。何も見えやしない。

 脳が警鐘を鳴らす。なのに自分の意志とは関係なく、目が勝手にその姿を探す。

 この血はどこから来た。

 見るな。

 この血は誰のものだ。

 見るな。

 この暗闇の中に、誰が。

 見るな!!


「うあ゛……ッ」


 続いて飛び出した自分のものとは思えない悲鳴に、頭が割れそうだった。



「――きよ!!」


 顔面蒼白で実正は清正の手を握った。


きよ、しっかりしろ! きよ!!」


 ――いったい何が起きた。


 深夜になって、眠っていた清正が急に苦しみだした。

 熱が高い時には悪夢を見ることもある。落ち着かせるように体を軽く叩いていたが、どんどん様子が酷くなっていく。

 一度起こした方がいい、と声をかけながら体を揺すったが、どれほど強くしても一向に目覚める気配がない。

 さすがにこれはおかしい。医者を呼びに行くべきだろうか。しかし今清正の側を離れるわけには。

 葛藤する実正の耳に、小さな「キィ」という鳴き声がした。


 ――また。


 何故こんなものがいる。おかしい。結界が綻んでいるのだとしても、何故清正の側に邪鬼が。

 嫌な気配がする。しかしその正体が掴めない。おかしい、ということしか、実正にはわからなかった。

 実正にあるのは戦う力だけだ。怪奇な現象の理由を突き止めることは、実正には。

 悔しさに歯噛みした時、実正の耳に戸を叩く音が届いた。


 ――誰だ?


 全身の神経を尖らせる。こんな深夜に、しかも清正がこんな状態の時に。

 偶然とは思えなかった。

 だがかえって好都合だ。仕組んだ者がいるのなら、捕らえて脅せばそれで済む。

 鋏に手をかけたまま、庫裏の玄関口まで行く。固唾を呑んで戸を開けば、そこにはつい先日寺を訪れたばかりの陰陽師の姿があった。


「や」


 短い一音だけ発して片手を上げた靖文に、実正は露骨に顔をしかめた。


「悪いが今あんたの相手をしている暇はない」

「そんな冷たいこと言うてええのん? わしが必要や思てわざわざこんな真夜中に尋ねて来てやったんに」

「あんた……っ何か知ってるのか!」


 胸倉を掴んだ実正の手を乱暴に振り払って、靖文は顔を歪めた。


「ほーんま、躾のなってないやっちゃなぁ。結界の様子がおかしいから見に来てやったんやろ」

「結界……」

「来たら来たで、なんや妙な気配するしな。飼い主になんかあったら、わんこはおろおろするしかないやろなーと思たら、案の定や」


 からかうような口調に苛立ちを覚えるが、言い返している場合ではない。

 悔しいが、この場で役に立つのは、実正よりも陰陽師の靖文だ。


「……来い」

「おや、吠えるのはもうしまいか」

「あんたみたいなのでも、陰陽師だからな。今はきよが最優先だ。必要なら金はいくらでも払うし、くつだって舐めてやるよ」

「……ま、金払いのええ客は好きやで」


 互いに腹の読めない視線を交わして、二人は清正のいる私室へと向かった。

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