2.始まり(1)

 ――平和だなぁ。


 ぼけっと空を見上げながら、のどかな鳥の声を聴く。ぽかぽかとした心地良い陽光が眠気を誘う。もうこのまま昼寝でもしてしまおうか、と定位置である本堂の弘庇ひろびさしに転がったところで。


「せんせーい!」


 馴染みの声に顔をしかめる。だから先生と呼ぶなと言うに。

 俺の表向きの顔は寺の住職だ。住職を先生、と呼ぶ奴はなかなかいない。

 しかしこのうるさい声の主――実正さねまさも、いつも俺のことを先生と呼ぶわけじゃない。普段はきよさねと気安く呼び合う仲である。

 こいつが先生と呼ぶのは、患者の前だけだ。すなわち。


「仕事しますかぁ」


 だるそうに肩を押さえつつ、俺は上体を起こした。

 さて、今度は誰を連れて来たのやら。



 本堂の中。客用の座布団を出して、さねと女が並んで座る。俺は向かいに腰を下ろした。

 女はきょろきょろと本堂の中を見回した後、俺の姿を上から下まで眺めて、訝しげに眉をひそめた。


「あなたが先生? 本当に?」


 じろっと険のある目つきで睨まれて、俺は思わず口元が引きつった。言いたくなる気持ちはわからんでもないが、んな態度だと治療してやらんぞコノヤロウ。こっちも慈善事業じゃないので、患者を選ぶ権利くらいある。


「まぁまぁ、かえ。腕は確かだからさ。それに、医者には原因不明って言われたんだろう?」

「そうだけど……」


 不満そうな様子を見せながらも、かえと呼ばれた気の強そうな女は、溜息を吐いて俺に向き直った。


さねちゃんの紹介だから来たけど、変なことしたらぶっとばすから」

「へいへい」


 口調が雑になるのも仕方ないというものだ。悪態をつかないだけいいだろう。


「それで、症状は?」

「変な咳が出るの」

「変、とは?」

「それは……」


 言いかけたところで、ぐっと何かが込み上げたようにかえが口元を押さえた。それから激しく咳き込みだす。苦しそうなかえの背中を、隣に座っていたさねがさすった。


「大丈夫か?」

「ええ……それより、これ」


 かえが押さえていた手のひらを、俺に向けて差し出す。見ると、黒い煤のようなものが散っていた。


「暫く前から、こんな風に、咳き込むたびに煤みたいなのが出るの。最初はどこかで煙でも吸ったのかと思っていたのだけど、ずっと治らなくて……。気味が悪いのよ。何とかしてちょうだい」

「煤……」


 かえの手のひらをじっと見る。心当たりがないわけではない、が。


「ちょっと、胸の音を聞かせてもらえるか」

「はあっ!? 胸ぇ!?」


 大声を上げながら胸元を両手で抱くように隠して、かえが後退った。大げさな反応にぴきりと青筋が立つ。


「呼吸の音を確認したいだけだ。触りゃせん」

「……本当でしょうね?」

「疑うなら帰れ」


 これ以上文句を言うなら診ないぞ、と暗に脅すと、かえはしぶしぶ手を退けて座布団に座り直した。

 俺は大げさに溜息を吐いて見せ、診察用の竹筒を取り出した。


「背中向けて」


 怪訝そうな顔をしながらもかえが背中を向ける。口を挟めば診察が中断されると学習したのだろう。そのまま静かに大人しくしていてくれ。

 着物の上から背中に竹筒を当て、耳を澄ませる。


「深呼吸して」


 言われた通りに、かえが深く呼吸する。吸って、吐いて。その音を、耳で聴く。

 人の耳に届く音。そして、人ならざる気配の音。一部の者にしか知覚できない音。


「――……わかった」


 あたりをつけて、俺は席を立った。


「薬を用意してくる。暫く待ってろ」


 二人にそう言い残して、俺は薬草倉へと向かう。

 蔵の戸を開ければ、そこには大量の薬草と、書物があった。薬の調合方法は、代々治療師に受け継がれている。ここには、もう何代前からあるのかもわからないほど古いものまで揃っている。

 その中から一冊の書物を手に取り、所見が合っていそうか確認する。


「……だよなぁ」


 俺の見立ては合っている。しかし、それならば些か疑問が残る。

 まぁ後で確認すればいいか、と俺は書物を閉じた。

 それから薬草棚の引き出しを開けて、必要な薬を刻んだ。最後に煙管きせるを持って、本堂へと戻る。

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