どんどん、どんどん。

ふさふさしっぽ

それはある夏のこと

 毎年学校が夏休みになると、おれは決まって千葉の祖母の家に遊びに行っていた。

 若いときに夫を亡くして以来、ずっと一人暮らしの祖母は、嫌な顔一つせずおれを迎えたくれ、おいしい食事を振舞ってくれる。

 大好きな祖母。

 ネグレクト気味の両親に代わって小さい頃はおれの面倒を見てくれた。快活で、いつもパワフル。ギャンブルやっているか寝てるしかしていない両親と大違い。本当、祖母には感謝しかない。


 その祖母が、おれのせいであんなことになるなんて。

 これは、おれが中学一年生だった十三年前の話だ。



 中学生になっても、おれは祖母の家に泊りに行った。

 当時のおれはほとんど学校に行かず、家に引きこもってゲームばかりしていた。それに対して両親は特に何も言わなかった。将来なりたいものも目標もなく、つまらなくて、本当は毎日でも祖母の家に行きたいくらいだったが、さすがにそれは迷惑だとおれは分かっていた。「学校はどうした?」と聞かれるに決まっているし。

 祖母には祖母の生活がある。

 だから夏休みが待ち遠しかった。

 祖母が住む町は小さくのどかな、いわゆる田舎だ。

 祖母の家の裏は山と畑になっていて、おれは畑を手伝ったり、山を散策したりして過ごした。


 ある日の夜中、近くに住む祖母の友人の具合が悪くなり、祖母は「ちょっと行ってくる。いつ戻るか分からないけれど留守番してて」と眠っていたおれを起こした。こんなことは初めてだった。


「もしかしたら、夜中に戸を『どんどん、どんどん』と叩くものがあるかもしれないけれど、近所の認知症のおじいさんだから。最近徘徊しはじめちゃったみたいでね。気にせず、絶対戸を開けちゃいけないよ」


「分かった」


「絶対だよ。約束」


「うん」


 おれがそう言うと、祖母はてきぱきと支度をして家を出た。言われなくてもまだ夢の途中だったおれは『どんどん、どんどん』とどんなに戸を叩かれようとも起きる気はなかった。

 徘徊するおじいさんか。高齢者ばかりの地域だから大変だなあ、くらいにしか思っていなかった。

 おれは再び布団に潜り込んだ。聞こえるのは扇風機が回る音だけ。

 それから一時間ほど経っただろうか。

 すると……。


 どんどん、どんどん。


 玄関の戸を叩く音で、おれは目を覚ました。


 どんどん、どんどん。


(まじかよ、本当に来た)


 時計を確認すると深夜二時だった。こんな時間に玄関の戸を何度も何度も叩くなんて、異常だ。緊急事態にしろ、インターホンだってあるのに、それを鳴らさず、戸を叩くなんて。


 どんどん、どんどん。


 祖母の家は平屋で、三つの部屋が続いた作りになっている。廊下はなく、引き戸の玄関の先が、すぐに台所兼居間になっている。その奥に和室があり、またその奥に使っていない六畳間。その六畳間に、おれは寝ていた。つまり玄関とは部屋を二つ挟んでいるのに、襖だってきちっと閉めているのに、そのどんどん、どんどん、と戸を叩く音は、おれの目を一気に覚まさせるほど大きな音だった。戸を叩きつけているような。


 どんどん、どんどん。


(無視無視。お祖母ちゃんだって、絶対開けるな、って言ってたし)


 おれは布団をかぶって、無理矢理眠ろうとした。しかし。


 どんどん、どんどん。


 戸を叩く音は、続いた。


 どんどん、どんどん。


(うるせえなあ)


 相手が認知症のおじいさんということもあって、おれは、玄関に出て一つ注意してやろうと思った。

 お祖母ちゃんは絶対に戸を開けたらダメだと言っていたけれど、これじゃ眠れやしない。


 どんどん、どんどん。

 どんどん、どんどん。


 今思えは認知症の人にしては、ずいぶんと規則正しい音だったけれど。当時のおれはそんなこと気にしていなかった。


 どんどん、どん


「すんません、うるさいんすけど?」


 おれは躊躇なく引き戸を開けた。

 そこには誰もいなかった。


「え?」


 目の前にあるのは田舎の暗闇と、湿気を含んだねっとりとした温かい空気のみ。

 念のため左右を確認するも、野良猫一匹いやしない。


「なんだよ……」


 一瞬、妙にひんやりした風が顔の横を通りすぎて、家の中に入っていった。急に怖気づいたおれは急いで戸を閉め、きっちりと鍵を掛けた。

 ちゃんと鍵が掛かっているか、二回、確認した。

 布団が敷いてある、六畳間に戻った。


(なんでだ? なんで誰もいない? あの音はなんだったんだ)


 目がさえて一睡も出来ないまま、おれは朝を迎えた。


 朝になって、祖母が戻ってきた。祖母の友人だという七十代の女性は軽い熱中症だということで、心配なかったらしい。


「大事にならなくてよかったよ」


 そう言いながらいつものように明るく朝食を用意してくれる祖母は、顔色が悪く、どこか疲れているようだった。


「留守番中、何もなかった?」


 朝食を食べている最中、祖母が聞いた。


「ああ、うん。何もなかったよ」


 言いつけを守らず戸を開けてしまった後ろめたさもあり、おれは気がつくとそう答えていた。


「そう。そんならいい」


 祖母はそう言いながら、味噌汁をすすった。


 そのまま、あの奇妙な出来事について祖母には何も話さないまま、おれは自宅に戻った。

 パチンコから帰った母親が「よくあんな気味悪いところ、泊まりにいけるね」とおれに吐き捨てるように言った。

 祖母は母親の母親だ。

 母親は、千葉の実家に嫌なものを感じ、高校を出たらすぐに東京こっちに出てきたと、酔っぱらうと語りだす。

 実家は、田舎で何もないが、それ以上に、何か……「へんなもの」が徘徊しているのだという。

 おれは「どんどん、どんどん」という音の話を母親にしようとも思ったが、結局やめた。なんだか言ってはいけないような気がした。


 九月に入り、祖母が家で倒れたという知らせが入った。

 おれは病院にすっ飛んで行ったが、かなり危険な状態だということで、祖母には会えなかった。

 祖母に会えたのは二週間後。

 もともとふくよかだった祖母は別人のようにやせこけていた、二週間、生死の境をさまよったらしい。

 おれはベッドの祖母に駆け寄った。


「お祖母ちゃん」


 祖母は、落ちくぼんだ目をおれに向けた。おれの目をじっと見て、何か言い淀んでいる感じだった。

 数秒後、乾燥した唇が開いた。


「徘徊しているおじいさんだから、開けちゃいけないって、言ったのに」


「……ごめん」


 おれはその言葉を聞くなり、体が一気に冷えていくのを感じた。


 開けちゃだめだったんだ。


「ごめん、お祖母ちゃん。来年も、お祖母ちゃんの家、行ってもいい?」


「もちろんいいとも」


 祖母はベッドの上で微笑んだ。なぜかおれは泣けてきた。お祖母ちゃんが助かって、本当によかった。



 おれはその後、学校に通いはじめ、真面目に勉強した。

 祖母はおれがちゃんと学校に通っていると思っている。その期待に応えたかった。

 おれのせいで、もしかしたら祖母は死んでいたかと思うと、いてもたってもいられなかった。


 それからの夏休みも、おれは祖母の家の遊びに行ったが、あのどんどん、と言う音を聞くことはなかった。

 おれが大学を卒業し、就職が決まったあと、祖母は眠るように亡くなった。






 おれは今、祖母の家に住んでいる。遠距離通勤になってしまうが、おれは居心地がいいこの家に住むことを決めた。両親とは連絡を取っていない。


「どんどん、どんどん」


 一年に二回くらい、戸を叩く音がする。深夜二時ぐらいから、明け方まで「どんどん、どんどん」と規則正しい音がする。

 この音がなんなのか、おれには分からない。

 分からなくても、慣れれば、意外に何とも思わなくなった。

 ただし、おれは絶対に玄関の戸を開けない。

 祖母との約束だから。

 それだけだ。



 終わり。  

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