♰Chapter 36:果たせなかった約束
紅雷が段階的に消えていく。
日本刀はすでに二本とも地面に落ち、魔力に帰している。
あたしのなかに入ってくる。
御法川の色のない銀瞳から。
身体中の血液がどんどんと加速し、心臓がうるさいほどに早鐘を打つ。
一度あいつの瞳を見てしまえばもう視線を外すことなんてできない。
甘い香りに釣られる蜜蜂のように。
「やめて、やめてよ! あたしの感情を弄らないで!」
組み変わっていく。
大嫌いな男が好ましく思えていくように。
尽くしたい、この人にすべてを預けたい。
思考がただそれだけに支配されていき。
理性がかすんでいき、泥濘に沈むように意識が混濁していく。
――……
夢を見る。
長閑な田園風景。
都心ほど高い建物はないながらも、僻地ではない。
どこか牧歌的な人と自然との共生地。
東雲は街を、田畑を俯瞰している。
”あたし、どうして……”
記憶はひどく曖昧だ。
何か大切なことを忘れている気がする。
今すぐにやらねばならないはずのことを。
「ねえ、伊織」
「ん? なんだよ改まって」
河原の石段に腰掛け、のんびりと夕刻を楽しんでいる大学生くらいの男女がいる。
東雲は不意にそこに漂う。
「伊織は、さ。今の毎日に満足してる?」
「んだよ、その質問。決まってるだろ? 俺は今に満足してる。地元の大学に通って、家の手伝いをして……そして
少し照れくさそうに笑う男の顔に東雲は既視感を覚える。
何か、何か知っているような。
穂波と呼ばれた女子大生は寂し気に微笑む。
「そっか。もし、もしもだよ? わたしがもう二度と会えないって言ったらどうする?」
その言葉に伊織と呼ばれた男子大生は一瞬真顔で考えて、それから笑った。
「決まってるだろ。俺から会いに行く。ちょっと遠いけど東京にだって行くぜ? 新幹線に乗ってな」
新幹線に見立てたのか、男子大生は勢いよく腕を前に突き出す。
その大袈裟な身振りが面白かったのか、くすくすと笑う穂波。
「なら、もしもの時は迎えに来て。約束だよ」
「ああ、約束だ」
夕陽に映える二人の影。
小指と小指が触れる約束の形。
それを東雲だけが見つめていた。
――……
気付けば東雲は夜に飛ばされていた。
今度は伊織の部屋と思われる場所。
部屋には男子大生特有の若干の散らかりが見られる。
東雲は見てはいけないプライベートを覗いている気になって気負いする。
それでも状況はどんどんと進んでいく。
「穂波から、電話? こんな時間に珍しいな」
端末の通話パネルを躊躇いなく押す。
「穂波か? こんな時間にどうし――」
”放してよ! わたしは嫌よ! 好きでもない人と――なんてっ! 伊織⁉ 助けて、お願い――きゃっ⁉”
そこで通話は途切れた。
伊織はただならぬ気配を感じて着の身着のまま家を出る。
走る、走る、走る。
途中で靴紐が解けても気付かない。
信号が赤になっていることにも気付かない。
「はっはっはっ……っ!!」
息が切れても。
血の味が口を染めても。
ただひたすらに走り続けた。
通話が切れてから十分と掛かっていない。
到着した場所はこの辺りの地主の家だった。
呼び鈴すら付いていない古典的な家。
金属製のノッカーを数回叩く。
「あの、誰かいませんか! 誰か――」
ゆっくりと開かれる門扉。
中から顔を見せたのは険しい顔つきをした白髪の老人だった。
「今は立て込んでいる。そもそもお前は誰だ?」
「俺は穂波さんと同じ大学の同級生の御法川伊織です。あの、穂波さんから連絡があって――」
「帰れ」
「……え?」
「帰れと言っている」
杖がかん、と石畳を鳴らす。
その威圧に思わず御法川が後退する。
それでも負けじと食い下がる。
「で、でも! 娘さんが心配じゃないんですか⁉ 穂波は『助けて』とそう言ったんです!」
「心配も何も家にいる。そもそもわしの娘ではない」
立て続けに伝えられる言葉に御法川は頭での処理が追い付いていない。
「とにかく帰れ。お前のような若造が来てよい場所ではない」
「――伊織? そこにいるのは伊織なの⁉」
「ちっ、余計な手間をかけさせるな!」
何かを杖でぶつ音がする。
だが声は確かに聞こえていた。
扉を閉めようとしていた老爺を遮るように足を挟む。
「待ってください! 確かに穂波の声が聞こえたんだ!」
強引に敷地に上がり込んだ御法川が見たのは頬を赤くし、涙焼けした瞳だった。
柔らかく微笑む彼女に相応しくない苦し気な顔。
ふつふつと伊織の腹の奥底から得体の知れない熱が溢れてくる。
それを怒りだと自覚もしないまま強い言葉を出す。
「あんたがやったのか――」
「誰かこの不法侵入者を摘まみ出せ」
どこからともなく表れる黒服の警護。
すぐに普通の大学生である御法川は拘束されてしまう。
「おやおや、どうされたんですか?」
さらに姿を見せたのは人当たりの良さそうなスーツ姿の男だった。
「ああ、剣持さんか。いや、どうしたもこうしたもない。折角来てもらったというのに不甲斐ない孫が言うことを聞かないんだ。そんな中でこの不法侵入者だ」
「ほう」
興味深そうに伊織と穂波を見る男。
「後のことは私にお任せいただけませんか?」
「……分かった。当事者は君だ。好きにするといい。ただ――」
「ええ、分かっていますよ。契約はこの時点で成立したとみなし、お約束のものも近いうちにお届けしますよ」
「助かる」
それっきり老爺は退場した。
「さてさて、まずは穂波さん」
「うぅ……」
髪を強引に掴み、一度二度と頬を打つ。
好青年の表情を浮かべたまま、無慈悲に幾度となく繰り返す。
「実の祖父の言いつけすら守れないとは……私の花嫁としては失格ですね」
「止めろぉぉおおおおおお!」
それを黒服に抑え込まれた伊織の叫びが制止する。
標的を変えた男は抵抗を封じられた伊織の前に屈みこむ。
「では次にあなたです。あなたは誰ですか?」
「御法川、伊織だクソ野郎!」
「……言葉遣いからして愚民ですね。私とは住む世界が異なる屑だ。一応聞きますがあなたは彼女の何です?」
その問いかけに伊織はわずかに躊躇して、ありのままを伝える。
「俺の、友達だ!」
「……くく、あっははははははっ!!」
心底可笑しそうに天を見上げて笑う剣持。
「嘘でも恋人とでも言っておけばもっと面白かったんですがね。いや失礼」
「何が、おかしい⁉」
「全てですよ。聞いての通り、私は彼女の祖父より彼女を花嫁として迎えることになりました。衰退している御家とはいえ、ここら一帯の地主ですからね。いわゆる政略的な、という奴ですよ」
伊織はぎりと血がにじむほどに歯を食いしばる。
黒服の抑えは強力で立ち上がることもできない。
「彼女の祖父は金銭の見返りに、彼女と土地を売ったんです。つまり、もうここは私が何をしようと自由なわけです。ねえ?」
伊織はそこで気づいた。
先程までの良い人のような態度は単なる擬態だったのだと。
三日月に弧を描く瞳からは邪念しか感じられない。
それからは早かった。
剣持は伊織を黒服に目一杯傷つけさせたあと、田んぼの用水路に投げ捨てさせた。
穂波が必死に呼びかけ、手を伸ばすも伊織は力なく意識を失うばかり。
――伊織、わたしは大丈夫だから! もう忘れて……あなたは幸せになって……!
東雲は上から見ていて心臓がきゅうっと締めつけられる思いだった。
これは、御法川伊織の記憶――そのわずかな断片だ。
これが、一人の男を狂わせた。
自分が何者であるのか、東雲の頭がようやく思い出し始める。
――東雲。
最近よく聞いた、いけ好かない男の声で再生される。
どこまでも遠く、それで近い位置にいるような響き。
「そうだ――あたしは東雲朱音」
世界が崩れ始める。
硝子が砕けるようにばらばらと。
意識が覚醒に向かうなか、彼女は見た。
穂波と呼ばれた少女の葬儀に参列する御法川伊織の悲哀と憎悪と憤怒に満たされた表情を。
これが、救えなかったと。手を伸ばせなかったと。
そう後悔する一人の男の偽らざる過去。
そしてそんな過去が生んだ悲しき固有魔法。
『人』に『愛される』ことで、『女性』の『喪失』を埋めようとした。
ひどく歪んでいて、ひどく正しい。
どこまでも皮肉で、どこまでも救われない。
それが御法川伊織という存在だったのだ。
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