♰Chapter 8:政略的な婚約
「それでは東雲様、本日も剣道のほう頑張ってください。また明日もお会いしましょう」
「ええ、また明日ね」
東雲は女学院の生徒として上品に挨拶を返した。
その完全性とは裏腹に心はぽっかりと空虚に満たされている。
日常は我慢の連続で、彼女にとっては当たり前のこと。
それでも奇妙な棘を感じるのは自我の誇りが抵抗しているから。
「はぁ……まったく、つくづくつまらないわよねあたし」
大した意味も込められていない言葉はすぐに空気に溶けて消える。
東雲朱音が在るのは、ステラ女学院。
周辺地域ではその名を知らぬ者など存在しないだろう。
豪商や豪農、政治家。
あるいは勉学や運動に限らず成績優秀者と認められた令嬢。
彼女らのみが門戸を叩ける学び舎。
最大の特徴は都会に立地しているにも関わらず、外界との接続が切り離されていることだろう。
目に見える形で言えば、敷地の外周部を白磁の外壁が囲うようにしてそびえている。
目に見えない形で言えば、個人での情報機器の携帯が一切許されない。
あえて好意的に捉えれば、伝統的に俗世間とは一線を画していると言える。
星の名を冠するそこでは、五角にちなんだ五芒星の教育理念を掲げられている。
すなわち、
――草木のようなたゆまぬ成長
――炎のような活力に満ちた健康
――土のような物事の正しきを判別する社会性
――金のような固定観念に捉われない自由
――水のようなたくましい冷静
の五つを育むこと。
全寮制が敷かれており、土日祝や長期休暇等の特別な時期を除いて学外への外出も禁じている。
大抵の人間が厳格すぎると言いそうなもの。
そうであっても女学院が維持されている理由には一つ、入学者が絶えず殺到することがある。
大人たちにとっては大切な娘に虫を寄せ付けなくて済むうえに高水準の教育が得られるのだから一定の人気を誇るのは当然だった。
東雲はついとそんなこの場所の在り方と自分の在り方を重ね。
「……おんなじくらいこの前時代的で閉鎖的な学び舎もつまらないわよね」
口に出してから小さく溜息を吐く。
中等部の頃から学籍を置いているからこそ、高等部に進学した今は慣れたもの。
勝手知ったるなんとやら。
周囲に人影がない開放感からか、独り言は自然と口を突く。
「でもこの生活も慣れたものね。昨日も今日も、そして明日もやることは同じ……」
東雲は強張る頬の筋肉を解しつつ、大きく息を吐いた。
魔法使いである彼女にも女学院のルールは適用されている。
だが〔幻影〕の〔盟主〕と繋がりを持つ父によって特別な事情を申請しているため、任務がある場合には外出届なしに外へ出ることもできる。
ただし都度親元へ連絡が行くので遊びに――ましてサボることなどは決してできない。
平日は東雲の名に恥じない完璧なお嬢様を演じつつ、それ以外の日には〔幻影〕としての哨戒任務をこなすということの繰り返し。
彼女にとって、剣道に打ち込むことがストレスを発散する手段なのだ。
「今日も千本やるか。あ、でも最近は生意気な奴も入ったことだし、もっと増やすのもありか。ああもう、思い出しただけでむかついてきた」
そんな独り言とは裏腹に口角は緩んでいる。
自分の表情を意識していない今の彼女はその理由を知りもしない。
「ただいま」
返り事のない部屋に声だけが響いた。
鞄を置くと靴下を脱ぎ、髪を一本に束ねていた組紐を解く。
そして倒れ込むようにしてベッドに沈んだ。
ぼふん、と身体全体を包み込む柔らかさに目を瞑り、それから大きく深呼吸した。
パーソナルスペースが確保された時点で人とは一層気が緩むものだ。
彼女も例外ではなく、ともするとそのままこんこんと眠ってしまうのではないかと思われるほど。
だが結論から言えばそうはならなかった。
「あれ?」
ゆっくりと仰向けに姿勢を変えたとき、視界に入ったのは机上の一通の手紙だ。
丁寧に紅い封蝋で止められているシンプルな意匠のもの。
それが誰からの手紙かは差出人を見ずとも分かっていた。
「お父様……」
倒れ込んだばかりの身体を起こすと引き出しからペーパーナイフを取り出し、封を切る。
中身は定型挨拶と短い内容が書かれた一枚の便箋があるばかりだ。
「今夜二十時に
――お父様は無闇に人を呼びつけたりしない。
これまでにも何度か呼びつけたことはあったが、いずれも重要な用件があるときだけだ。
だからこそ東雲は再び寝転がった。
今度は便箋を胸に抱いたまま、部屋の天井を見上げるように。
このとき、この場所、この場合における重要な話と言えば――。
――……
厳めしい門柱に寄りかかっていた東雲はそのエンジン音にすぐに気づいた。
「お嬢様、お迎えに上がりました」
車から降りてきた人物はすらりと伸びた長身に一切の乱れがない黒髪。
物静かな様相は小さい頃から変わらずの父の秘書だった。
だから自然体の東雲を知っているのも必然と言えた。
「鷹条……急に迎えに来たかと思えばこれはどういうこと?」
開いた手紙を鼻の先まで突き付けるが鷹条に動揺の色はない。
むしろ勢いよく詰め寄った東雲自身が羞恥を覚えるくらいである。
「急なお呼び出しになってしまったことについては申し訳ございません。その件については移動中にお話しさせていただきます」
「……分かったわ」
東雲が車に乗り込むとすぐに滑らかに動き出す。
前進も後進もわずかな慣性が働くばかりの丁寧な運転とそれを可能にする技術。
そんな生真面目な鷹条と彼女はひと月に一度、近況報告をするための場を設ける。
彼は見聞きしたことをそのまま彼女の父親のもとへ淡々と報告する。
一見すると自動人形。
無機にして無地。
そうでなければ東雲の父親に仕えてなどいられない。
次々と硝子一枚を隔てた景色が流れていく。
「それで? まだ定期報告には早いわよね。それにこの手紙の筆跡……お父様直々の呼び出しなんて珍しいじゃない。何か大事でもあった?」
「いいえ、お嬢様が心配されるような大事は何も。ですがお嬢様からすれば大事には違いないと思います」
揶揄うつもりがなくても揶揄っているように見えるやり取り。
東雲にとって言葉はまどろっこしい意思疎通の道具だ。
道具であれば簡素な造りであるべきだというのが彼女の持論。
特に含むことの多い目の前の人間のような部類は面倒くさい。
「焦らさないでよ。あたしの性格は知ってるでしょ」
その言葉に鷹条はかすかに口元を緩めた。
「ええ、知っていますとも。あれはお嬢様が八歳くらいの頃でしたか。初めて社交パーティーに東雲グループ代表代行として参加された際には上手く振舞えず、お帰りになってから泣かれていましたね。ああ、それに御父上がお帰りにならないときにはよく私に不満をぶつけられていたこともありました。どれも真っすぐすぎて駆け引きというものを知らな――」
東雲は今でもその頃の記憶を思い出せる。
だが思い出にしては稚拙でどうでもいいものばかりだ。
鷹条の言葉を途中で遮る。
「ふん、そんなこと今はいいでしょ。あたしは昔からなんにも変わっていないわよ」
その言葉に鷹条はいいえと首を振る。
「いいえお嬢様。あなたは少しずつ変わっていますよ。そしてこれからも変わらなければなりません」
「それは、どういう――」
東雲の戸惑いが落ち着くのも待たず、流れるように秘書は告げる。
「御父上からの呼び出しの意図は、お嬢様――あなたの婚約にあるのですから」
「――え……?」
心底驚いた表情を浮かべる。
あまりに唐突に告げられた言葉に思考が追い付いていない。
ぽかんと小さく開いた口はそれでもすぐにきゅっと引き結ばれる。
――本当はあたし気付いてる。
気付いていて、勘付いていて。
それでも信じたくないから。
だから繰り返し聞いてしまったのも無理はない。
「ごめん、もう一回言ってくれる?」
――聞きたくない。この先は。
嘘だと言って、お願いだから。
滑るような車の停止。
わずかな駆動音すらなくなってしまえば完全なる静寂だけが残る。
信号の赤が鷹条の顔に薄く反射している。
彼はまっすぐ前を見据えたまま残酷に事実を告げる。
「御父上がお嬢様の婚約のお話を持ってこられました。これから本社の方で顔合わせをしていただきます」
東雲は運転中の鷹条の座席を掴み、前のめりになる。
幸いなことは停止していたことだろう。
「それはお父様が決めたこと?」
「はい」
――とすん。
シートのクッションがかすかなスプリングの音を立てて沈む。
「そっか」
それから東雲は一言も話さなくなってしまった。
彼女の唇に、血がにじむほど歯が食い込んでいたことに彼は見て見ぬふりをした。
――……
「東雲
「入れ」
鷹条が控えめな所作で扉を叩くと威厳に満ちた声が返ってくる。
それが扉越しでもあるにも関わらず、東雲を緊張させていた。
高層階に位置する部屋は夜の帳に包まれており、暗い。
周辺のビルの明かりのみが光源だった。
そしてデスクを隔てた向こうには足元から天井にまで届く硝子窓を背にした父の姿があった。
それだけで広いはずの部屋が委縮するように小さな鳥籠のように見えてしまう。
彼女は努めて礼節をわきまえた上品な仕草で挨拶を口にする。
「お父様、お久しぶりです。お変わりがなさそうで嬉しく思います」
「ああ、久しぶりだな。お前も変わらずのようだ」
「はい。それもお父様が手配してくださった学院と精鋭部隊がいてくれてこそです」
「私の判断に間違いはない」
父の口癖だ。
彼が決めることは何に代えても優先される。
それが間違っていれば反抗する者もいるだろう。
だが東雲の知る限りただの一度も成果をあげられなかったことはない。
東雲は父を『稀代の才覚に恵まれた――いわば鬼才』と呼べる人物と認識している。
「お前はつい先日、十六の誕生日を迎えたな。あと二年もすれば東雲グループの導き手となる伴侶と結ばれなくてはならない。ここまで言えば分かるだろうが今日呼び付けたのは他でもない。お前の相手を連れてきたからだ」
「――失礼します」
示し合わせたように扉から入ってきたのはスーツ姿の男だ。
東雲は直感で自分よりほんの少し年上だろうと判断する。
何より目を引くのは、両眼が色褪せた黒布で覆われていること。
「紹介しよう。彼は主にホログラム技術の研究開発を担うネオテクノ社の
父の視線に促された御法川は気さくな態度で軽く会釈する。
「紹介に預かった御法川です。東雲さん……いえ朱音さん。どうぞ気軽に伊織と呼んでください。初対面ですし、最初は仲のいい友達だと思って接してくれると嬉しいです」
東雲はあまりのうさん臭さに受け入れがたい感情をさらに強める。
そのあまりにも人慣れした態度に逆に違和を覚えている。
だがそれらは全て彼女の過去に由来した感情であって、御法川自身に非はない。
いきなり婚約者だと紹介された一人の男性。
東雲は女学院に通っているとはいえ、令嬢の作法として異性との付き合い方に関してもわきまえている。
だがそれでも見知らぬ誰かをすぐに婚約者と認めることなどできるわけもなかった。
「お父様、これは……どういうことですか?」
東雲朱音が尊敬する父に対する最初で最後の――唯一と覚悟した抵抗だった。
その言葉にわずかに眉を動かしたのは父だ。
「どういうこととは? 先にも述べたが彼がお前の婚約者だ。成人を迎えるその時に結ばれてもらう。ただそれだけのことだが何か不満か?」
「い、いえ」
親が子に向ける優しさは感じられない。
ただ淡々と決定事項を伝えられるためだけに呼び出されたのだと東雲は知った。
御法川は東雲が直視していたことを悟ったのか、それに気づき頬を掻く仕草を見せる。
「ああ、これですか。見苦しいところを見せてしまいましたね。実は幼い頃に一度だけ事故に遭ってしまって……両眼とも見えてはいるんですが光に弱いんです。今はホログラム技術を応用して、現実をAR化した知覚で外界を捉えているんですが――とあまり長々としてもよくないですね。こればっかりは許してもらえれば嬉しいです」
そう言って彼は目元を覆う布に触れる。
東雲はこの部屋の照明がついていない理由に納得した。
だが顔の傷を婚約者にも見せられないというのはおかしくはないのか。
正直に言えば鼻で嗤って拒絶を突き付けてやりたかった。
でも――これは尊敬するお父様の決めたこと。
そこに異論を挟む余地などなく、その権利においてお父様のモノである自分には存在しない。
「分かりました、お父様。わたしは御法川……さんと婚約します」
「それでいい。お前は――私のモノなのだから」
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