第8話 小説とステレオタイプ

【ステレオタイプ】

 多くの人に浸透している先入観、思い込み、認識、固定観念、レッテル、偏見、差別などの類型化された観念(Wikipedia)


 私たちは毎日いろいろな情報に接して過ごしていますが、このステレオタイプで物事を見ていることがとても多いです。

「男は弱音を吐いてはいけない」

「女は優しくて家庭的で料理上手」

 このあたりは一番有名なステレオタイプでしょうか。

 ジェンダー平等が叫ばれるようになったおかげで、このステレオタイプは最近徐々に減ってきた気がしますが。(いいことです)


「おばさんはみんなお喋りで口うるさくて図々しい」

「年寄りはみんなITに弱い」

 なんてステレオタイプもあります。

 ある程度当たっているところもあるのですが、「みんな」と言われたら、「いや、私は違う!」と中年女性や高齢者から反発する人が出るのは間違いありません。


 では、ひるがえって小説の世界では?


 現代を舞台に日常を深く描く作品では、現実に沿った捉え方をするために、ステレオタイプな見方をできるだけ排そうとしているかもしれません。

 でも、これがファンタジー作品になると、ステレオタイプのオンパレードになります。


「ドワーフは背が低くて頑強。ひげが長くて鍛冶が得意。戦士としても優秀」

「エルフは長身でスタイルが良く、金髪碧眼、耳の先が尖っていて弓矢が得意」

「村人は素朴で無知。いつも怪物や盗賊に襲われて困っている」

 これらは全部キャラクターに対するステレオタイプなイメージです。


 いえいえ、ステレオタイプが悪いと言ってるわけじゃありません。

 私も自分の作品にステレオタイプなキャラクターや舞台を数多く登場させています。

 私はステレオタイプを共通語のようなものなんだろう、と思っています。

 共通設定と言ってもいいでしょう。

 その設定が多くの人の間で共有されているから、読者は苦労せずに作品が読めるのです。


 ただ、現代作品ほどではなくても、時々自分のステレオタイプを見直す必要はあるのではないか、と思っています。

 具体例を挙げます。


 私は『勇者フルート』の1巻に黒い闇の霧を登場させました。

 今ちょうどそのあたりをカクヨムで連載しているところです。

 闇を含んだ霧なので、人も動物もおびえて家やねぐらに隠れたまま外の様子をうかがっている──そんな場面を書きました。

 有害で得体の知れない霧が突然やってきて村や町をおおってしまったのだから、そういう反応になるのが当たり前だ、と当時の私は思っていたのです。


 さて、私は福島県伊達市に在住しています。

 生まれも育ちも福島県です。

 2011年の東日本大震災では、東京電力福島第一原発で爆発事故が起きて、内陸にある伊達市にも風に乗って放射性物質が飛んできました。

 みんな驚きました。恐れました。

 これまで経験したことがなかった事態に、どうしたらいいのかわからなくて、右往左往した人々もいました。

 事故を起こした原発の風下は特に線量が高かったので、住人は強制的に避難させられました。

 12年あまりがたった今でもまだ自宅に戻れない人たちがいます。


 でも、避難の対象にならなかった福島の人々は、家の中に隠れてばかりはいませんでした。

 線量計を手に至る所で放射線量を測定し、安全な場所とそうでない場所を見分けていきました。

 飛散した放射性セシウムが土の中の粘土と強く結びつくことを見極めると、その土を取り除く「除染」を行い、安心して住める場所を少しずつ広げていきました。

 安全を確かめながら農業や漁業も再開させていきました。


 得体の知れない放射性物質は、本当に、突然押し寄せてきた闇の霧のようでした。

 人々はその害から逃れようと、逃げ惑ったり家に閉じこもったりしましたが、やがて立ち上がって敵を見極め、自分たちにできることを見つけて実行していったのです。

 人間はそんなにじゃない。

 家にじっと閉じこもってヒーローが助けに来るのを待つ、なんていうのは、私のステレオタイプだったんだ、とつくづく思い知りました。


 その後、『フルート』の第3部「竜の宝編」の後半でも、世界は闇の灰というものにおおわれました。(※カクヨム未公開)

 原発事故が起きる前からそのエピソードは考えていたので、当初は闇の霧のときと同じように、人々は闇の灰を恐れて家に閉じこもり、それを主人公たちが助けるというストーリーにするつもりでした。

 でも、原発事故の経験から、人々が闇の灰を調べて、対応策を編みだしていくというストーリーに変わりました。

 不完全でも、自分たちでがんばったのです。

 勇者であるフルートたちの出番は予定より減ってしまいましたが、人間のたくましさが感じられる作品になったと思っています。


 ステレオタイプは物語をわかりやすくするために便利なものです。

 それを全否定するつもりはまったくありません。

 ただ、物語を書いていく中で、ステレオタイプなものの見方を捨てることが、さらに深みがある作品を作ってくれるのではないか……。

 そんなふうに思うのです。



 次回は物語の構造論。『勇者フルート』と昔話の関係についてのお話です。



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