第8話 清めの塩

 僕はユリさんの帰りを店の前で待っている。辺りはすっかり暗く、虫の声だけが聞こえる夜の軽井沢・・・


 8時を過ぎた頃、一台のタクシーが店から少し離れた道で止まった。僕が動くとセンサーが察知して店の扉付近の灯りが付いた。ユリさんはその灯りに驚いたようで、車の入れない細い路を小走りで来て、少し不安そうに僕の方を見た。そして僕だとわかると“どうしたの?”と聞いた。僕は、お清めの塩をしに来たと言った。するとユリさんは鍵と清めの塩をバックから取り出し、僕に渡した。“そういうことは知っているのね”と下を向いたままはにかむように笑い、僕がユリさんの身体に塩をかけるのを待った。


 店の中に入った。3日人がいないだけなのに、店はいつもと空気が違った。ユリさんは電気を付けて、キッチンに入りお湯を沸かし始めた。

 僕はキッチンにいる喪服のユリさんを眺めた。なかなか言葉が出ず時間が経った。そして僕はやっとのことで、ちゃんとお別れは出来たかと聞いた。するとユリさんは“ええ”と一言言った。また時間が流れた。言わなければいけない・・・。

 僕は意を決して、編集から連絡があり東京に戻らなければいけないこと、いつ帰ってこられるかわからないこと、明日の昼までに東京に行かなければいけないこと、を告げた。ユリさんは僕の方を見ずに、“そう・・・”と言った。

 沈黙が続いた。僕は書斎に忘れ物があるからと言って2階に上がった。忘れ物などない。なんだか涙が溢れそうだったので逃げた。


 ついこの間、彼女のご主人は有名なミステリー作家であることを知った。彼女と結びつかなかった。似合わないと思った。隣にいるのは彼ではない・・・僕はあきらかに嫉妬している。


 僕は書斎のロッキングチェアに座った。東京にはずっと居ないと編集に言うと、今回はいろいろあるので当分は居てくれないと困ると言われた。そして、僕には不安があった。今度東京に行くと、ユリさんはもう帰ってくるなと言うことを僕は知っていた。最近ユリさんはそろそろ東京に戻ったほうがいいと僕に言っていた。そんな言葉をユリさんから聞きたくない、ここを離れるのはイャだ。ユリさんと離れたくない。そんな想いが増すばかりだった。

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