第九話 怨霊調伏
夏美は逃げ続けていた。家から一番近い神社は歩いて20分かかる。暗い夜道で走って目指すとなると、普段とは違った風景に迷いそうになる。
「っはぁ、はぁっ!」
羽織った上着の袖に腕を通す余裕はなく、肩から落ちそうになるのを掴みながら走る。
道に迷ったのか、いつもの道が夜の暗さで見覚えのある風景に見えない。間違えたのだろうかと十字路で立ち止まり後ろを振り返ると、そこにはあの男がいた。黒いもやなどといった曖昧な姿ではなく、かつて夏美に生暖かい手で触れていたあの姿に。
小柄で贅肉のついた背広姿に、肌は脂ぎって卑しい笑顔を更に下卑た表情にしている。黒いもやは変わらずあたりに漂い、ゆっくりと泥のように夏美の足元に押し寄せている。
「あ、あ……」
夏美の脳内にフラッシュバックするのは、オフィスから出た時に待っていたあの男の姿だった。
「いや……嫌ぁ!」
逃げるようにして夏美はその場から走り去る。後ろから革靴のはずなのにひたひたと聞こえる音だけが鐘打つ心臓に紛れて鮮明に聞こえた。ひたすら音から逃げるように走る。既にどこに向かっているのか夏美自身でも理解しないままに、夜は更けていった。
走り続け、息を切らしながら夏美はようやく神社に辿り着いた。そうして鳥居を見上げている間にも、背後から寒気のする気配は迫ってくる。暗い境内は得体の知れないものがいるかも知れないという恐怖があるが、それでも迫り来る恐怖よりはマシだと笑う膝を叩いて石畳の階段を登る。
「誰か、いませんか……?」
2、3段程度の浅い階段を登って鳥居をくぐれば、こわばって震えるだけだった喉から声が出た。後ろを振り返れば、黒いもやが迫っている。
「ひっ、」
その様子に尻餅をつくも、夏美は逃げるようにして後ろ向きに這っていく。
もやはここぞとばかりに飛びかかるも、鳥居の目前で見えない壁に阻まれたように弾かれた。
「助かっ、たの?」
「いや、まだだ」
暗闇の中から一頭の犬と共にバメイが姿を見せた。以前会った時と同じように、パーカー姿で夏美を出迎える。パーカーのポケットをまさぐり、何かを取り出したバメイはそれを夏美に投げ渡した。
「吸ってろ」
「これ……」
それはタバコの箱だった。深みのある紺地のそれは、タバコを吸わない人でも知っている有名な銘柄だった。
「中身は別物だ。タバコですらない」
そうして更に夏美はバメイからマッチの箱を投げ渡される。昔二十歳の誕生日に試しに吸って咽せて以来のため、手元が震えてマッチに火をつけることすら難しい。それでもなんとかタバコに火をつけ、タバコの煙を吸い込む。
バメイがタバコですらないと言ったように、吸い込んだ感覚は蒸気のようで、喉や肺に負担がかかる感覚はない。
「……さて、仕事だ」
そうしてバメイは引き連れていた犬を撫で、鳥居の前で虎視眈々と夏美を狙うもやへと指差した。犬はバメイの言葉を理解した様子で、真っ直ぐにもやへと走り飛びかかった。
犬はもやを噛みちぎり、咀嚼して飲み込んでいく。そうしてもやは見るからに体積を減らしていき、ついには手のひらに乗るほどの大きさになっていった。
「こいつが、今回のポルターガイストの正体だ」
警戒することなくバメイはそれを持ち上げ、指で摘んでもてあそぶ。金属同士がぶつかったような金切り声が小さく聞こえるが、今のその姿に夏美は脅威を感じなかった。
「……清水、なのですか」
「ああ」
バメイはあっけらかんと肯定し、指で摘んだそれを高く持ち上げた。そして大きく口を開けると、上を向いて口の中にもやを放り込んで丸呑みしてしまう。
「これで依頼は完了だ。清水はもうお前に何もすることができない」
「あの、その、体は……」
見るからに健康に悪そうなものを飲み込んだが、バメイは特に気にしていない様子で、ポケットから取り出したもう一つのタバコの箱からタバコを取り出して口に咥えた。
「何も問題はない。……別に心配しなくても、元々こういったものは平気な体質だ」
夏美の手からマッチ箱を取ると、慣れた様子でマッチに火をつけてタバコへ火を移す。その姿さえ絵になるほどのバメイの姿を眺めていれば、ふと自分の背中を押してくれた少女が無事かどうかが気がかりになってくる。
「……彼女は、」
「別件にすぐ向かった。俺も報酬を受け取ったら向かうから心配しなくていい」
そうしてバメイは夏美の手を引いて立ち上がらせると、そのまま夏美の家へと向か。
玄関先で夏美から報酬の宝石を受け取ったバメイは、そのまま挨拶もそこそこに、立ち去っていった。
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