第八話 丑の刻

 夜、夏美はベッドで眠っていた。ポルターガイストによってボロボロに破られたシーツから綿が溢れ、寝心地もいいとは言えなかった。いつもなら何重にも毛布を被って寝ているが、夜中に目が覚めた時は毛布は全て床に落ちていた。

「あれ、なんで……」

 寝相が特別悪いわけでもなく、夜中に数度寝返りをするだけであるはずの夏美は、寝巻き姿のままベッドに横たわっていた。肌寒さに気付き毛布を回収しようと起きあがろうとするも、体が動かない。

「嘘、体がっ」

 全身が痺れたように動くことができず、視線を動かして周囲を見渡すことしかできなかった。

 足元から視線を感じる。焦点を合わせれば、足元から何かが這い出るのを見た。黒いもやのようなものが、ベッドの上に這い出て来る。それはやがて明確な何かの形になっていく。

「あ……ああ……」

 やがて人の形になったそれがニタリと嗤う。夏美はそれを知っている。あの日個室に押し込めようとした、ぎらぎらと脂汗の滲んだあの男を。

 男の形になったそれの手が、夏美の体を這うように進む。舐めるようにして足先から這い上がるその手を拒むこともできずに、どんどんと太鼓を叩いたように鳴る心臓と背中を走る悪寒に耐えるしかできなかった。

「いや、いやっ……助けて……」

 ひたりと冷たい手が這う感触に、歯を食いしばる。このままどうなるか、嫌な想像ばかりが頭をよぎった。人知れずマンションで怪死という文面が想像できた。

「そこまでです、清水修」

 つい数時間前に聞いたような声が聞こえる。頭に直接響くような少女の声に、黒いもやのような男の動きが止まる。

「人を呪わば穴二つとは言いますが、越智様はあなたを呪っていないのです。越智様の分の墓穴はかあなは無いのですよ」

 気がつけば夏美の枕元に沙穂は座っていた。どうやって入ってきたのかと思う間もなく、清水と呼ばれたもやが後ずさる。

「時代と環境が違えば呪術師として大成できたであろう才能は惜しく思いますが……人の道理を弁えぬ方にかける情けはありません」

 ゆっくりと沙穂の手を借りて夏美は起き上がる。いつの間にか金縛りは解け、滝のように汗が流れた。鐘を打ったような心臓の音は落ち着き、冷静になって周囲を見渡すことができる。

「越智様。動けるようでしたら、急いでここから出て町内の一番近い神社まで向かってください」

 立ち上がった夏美は、急いで上着とスマートフォンを手にすると、沙穂に背中を押されながら走り始めた。家から脱出し、階段を下り、外へと走り出す。背後から迫る気配は、部屋にいたあの黒いもやだろうか。

「追いつかれる前に、早く!」

 強く背中を押されたのを最後に、夏美はたった一人で夜道を駆けることになった。


 暗い夜道を駆けて消えていく背中を見守りながら、沙穂は立ち止まる。一つ呼吸を置いて、今度は来た道を振り返った。

「どうかお引き下がりください。これ以上先へ進めば、私は貴方を害さねばなりません」

 黒いもやは沙穂の前で立ち止まると、そのまま沙穂を見下ろすように漂っている。呼吸のように時々もやから漏れ出る空気は、悍ましい死臭がして生暖かい。

 沙穂はそれに臆することもなく、いつの間にか取り出した短刀を逆手に持って腰を落として構えていた。短刀を持った右手はもやへと向き、左手は力を抜いたまま開き、胸元に収めている。

「のうまくさんまんだ……」

 ボソボソと口の中で渦を巻くような言葉と共に、沙穂は目の前のもやと対峙する。その様子に気付いたのか、僅かにもやが動いたのを沙穂は見逃さなかった。

「っ!」

 何かに気がついた沙穂が一歩下がれば、さっきまで立っていた足元の地面に何かが刺さる。よく見れば、赤黒く変色した布のような何かが巻かれた五寸釘だった。

「……お前、」

 沙穂の声が低くなる。黒いもやを避けるようにしてその後ろから一人の男が現れた。

「やあ、久しぶりだね沙穂ちゃん」

 暗がりの中街灯に照らされた男は、バメイより幾分か痩せた男だった。痛んだ白い髪はざんばらに切り、痩せこけた頬には影が落ちている。ニタニタと口元に浮かぶ笑顔だけが男の気味悪さを助長していた。暗い色の着流しに同じような色の羽織で、闇に溶ければ首だけが浮いているように見えてしまうほどだった。

「さ、清水くんは先へお行き。私は彼女と話があるんだ」

「私にはありません」

「つれないなァ」

 目の前の男を放置して動くことなどできず、沙穂は足元をすり抜けていく黒いもやを見逃すしかなかった。

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