第四話 冬の夜

 稲置いなぎ沙穂さほが夏美の家を訪れた夜、その日は物が落ちることも、飛んでくることも、壊れることもなかった。久々の静かな夜に、夏美は死んだように眠り翌日明け方に目を覚ます。

「もっと早く依頼すれば良かった……」

 時間と心に余裕ができた夏美は、湯を沸かして入浴剤を引っ張り出す。少しだけぬるい湯船で体を伸ばせば、パキパキと肩や腰から音がするのが心地良かった。今日だけかもしれないが、こうして一日が過ごせると考えると心が軽くなる。

「大丈夫、もう少しだけ耐えられる」

 脱衣所に上がり、いつもより丁寧に髪の手入れをする。ポルターガイストの恐怖と誰にも言えなかった心労から荒れていた髪も、少し余裕を持つだけで見違えるほど美しく輝きを放つ。これが人間の生活なのだと、夏美はようやく思い出せた。



 夏美の恋人とは、上司を告発した後に社内で恋に落ちた。上司からの嫌がらせを受けた時、上司を告発しようと動いていた時、影から守り支えてくれた人が今の恋人である。

「夏美さん、今日は顔色がいいですね。最近隈ができてて心配してました」

浩輔こうすけさん、心配してくれていたんですね」

 須原すはら浩輔こうすけは夏美が入社して2年後に後輩になった男である。夏美が嫌がらせを受けていた頃に何も言わずに無力ながら上司から守っていたのである。

「最近ちょっと困ったことがあったんですけど……少し専門家に相談したら気が楽になって」

「今度は僕にも言ってくださいよ」

「はい」

 仕事終わりの二人は退勤の切符を切り、オフィスから出る。玄関口では肌寒い程度であったが、外へ出れば思わず身震いするほどの寒さだ。肩が縮み上がるのを感じながら、すっと息を吸う。そうしてすっかり暗くなった街を眺めると、遠くから白い少女が向かってくるのを夏美は見た。

「あれ、」

「どうしたんです?」

 夏美の様子が気になった浩輔に気を取られているうちに、少女はあっという間に距離を詰めた。白髪しろかみの腰まで伸びた髪がビル風に揺られ、ふわりと広がる檜皮ひわだ色のスカートと相まって西洋絵画のような情景である。

「越智様、こんばんわ」

 すっと頭を下げる沙穂の姿に、この少女は何者かと問うような浩輔の視線が夏美に投げられる。

「ええっと……」

「先日貧血で動けなくなっていたところを助けていただいた者です。どうしてもお礼がしたく、頂いた名刺を元にご挨拶に参りました」

 淀みなく沙穂から告げられる言葉に浩輔は納得し、そうかと微笑みを浮かべている。さすがに冷え込むのか、初めて会った時とは変わって黒いインパネスコートに袖を通している。

 黒い生地の上にふわりと流れる白髪しろかみは水墨画のようで、儚い雪のような肌と相まって貧血というハッタリが真実ではないかと、全てを知っている夏美も錯覚する。

「お礼を言いに来たのなら、親御さんさえ良いって言ってくれれば一緒に夕飯を食べないかい?折角だしね」

 人のいい浩輔の提案に、ふわりと沙穂は微笑む。

「はい。私もそのつもりで参りました。アルバイトもしているのでこちらで夕食をお誘いするつもりでしたが、ありがたい提案です」

 花がほころんだかのような微笑みに、女性である夏美も思わず赤面してしまう。それだけの美貌がありながら、それを鼻にかけない美徳と品性が彼女に備わっていた。

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