第二話 暴れる部屋

 仕事を終えた夏美は、重たい足取りで夜道を歩く。川辺で謎の女性の声を聞いてから二日、何も変わることはなく家では怪我が増えるだけの日々だった。

 あれは幻聴だったのだ。くだらない噂に縋った末に自分の脳がおかしなことを認識したのだと言い聞かせる。結局は、あの怪現象に殺されるのだと。

 そうしてマンションの入り口近くになると、顔を上げてガラス張りの扉から溢れる光を眺める。その光景に、いつもはあるはずのないものがいた。

 ゆったりとしたブラウスとスカートを着こなす女性のシルエットと、パーカーにジャケットを羽織ったスラリとした男性のシルエットが見える。その姿に、夏美は目を見開いた。

「先日ご依頼くださりました越智おち夏美なつみ様でしょうか」

 ガラス張りの扉からの逆光で影しかわからなかった女性は、年頃で言えば16、17ごろだろうか。あどけない顔立ちと腰元まで伸びた白髪しろかみが彼女の外見に神秘性を纏わせている。

 生成りのブラウスに檜皮ひわだ色のスカートで構成された上品なワンピース。煉瓦れんが色の淡い光沢は、その革靴が新品などではなく手入れが行き届いている証拠である。

 肩に羽織った黒いレースで編まれたショールが、白髪しろかみの異質さを際立てていた。

わたくし達は稲置いなぎ探偵事務所の者でございます」

 空気を揺らさずに頭を下げる洗練された所作に、思わず夏美は見入って呼吸を止めてしまった。

 神秘を押し込めたようなセレンディバイトの瞳と目が合った時、ようやく夏美は自分が呼吸をしていないことに気付く。その迂闊さを悟られるかもしれない恥よりも先に深呼吸をし、ようやく夏美は沙穂と向き合った。

「ありがとうございます。確かに、私が依頼をしました」

 この美しい少女が自分を助けてくれる。そう思うと、夏美の目の前にいるのはただ美しいだけの少女ではなく、天からの遣いにすら見えた。

「依頼について詳しいお話は部屋でします。どうぞあがってください」

 詳しい話をするにも、人気の少ない夜とはいえマンションのロビー前では都合が悪いと、夏美は自ら借りている一室へと招いた。オートロックの暗証番号を入力している間に夏美が盗み見たのは、少女とそれに付き従うように振る舞う美しい青年の姿だった。

「ごめんなさい、汚い部屋ですが……」

「お構いなく」

 言葉に偽りはなく、夏美の部屋は酷い惨状だった。物がぶつかり壁紙は剥がれかけ、床は包丁が刺さったままでいる。改めてよくこの中自分は生きていたと夏美は思った。

「見ての通り、ポルターガイストで部屋がよく散らかるんです。重たいものや割れたら危険なものはしまっておくのですが、いつの間にか出てきてて……」

 動線の邪魔になるものは手早く片付け、無事だった薬缶とティーポットを用意して茶葉を出す。趣味の茶も磁器のティーポットを割るのが怖くて長く戸棚の奥にしまわれていた。それでも今は、このポットが割れる恐怖よりも美しい客人をもてなす方が優先なのだ。

「依頼の内容と変わりはないようですね」

 感心した様子で少女と青年は夏美に案内された席に座る。殺意すら感じる散らかった部屋に対して動じないのは、怪異を専門とする特殊な仕事ゆえだろうか。

 二人が座ったのを確認し、夏美は机を挟んで向かいに座ることにした。お湯が沸くまでにまだ時間はある。

「自己紹介が遅れました。わたくし稲置いなぎ沙穂さほ。こちらは私の助手を務めているバメイと申します」

 沙穂に紹介されたバメイという青年がゆるく頭を下げる。滅多に見かけない白髪しろかみの少女に気を取られていたが、この青年も男前よりも美青年と表現すべきであろう美貌を持っていた。

 青年の吸い込まれるような瞳の青さにため息が出そうなほどの神秘がある。室内でもベースボールキャップを外さない非礼など全く気にならなかった。

「……では、詳しいご依頼の内容をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「はい」


 三週間前、家の中で花瓶が落ちていた。初めはそれだけだった。それから一週間、ものがいつの間にか落ちていることに気付き、空き巣かと思って警察に相談したものの結果はなしのつぶて。そこからポルターガイストは悪化の一途をだとり、ここ一週間は夏美に向かってものが飛んでくるようになった。

 依頼を書いた紙を川に投げ込んだ日は、危ないからとしまい込んでいた包丁がどこからともなく飛んできていたのだ。

「何か思い当たることはありませんか」

「思い当たること、ですか……」

 お湯が沸いたのを確認した夏美は、慣れた様子で紅茶を淹れる。一ヶ月ぶりのマリアージュフレールで購入した花の香りがポットの中で開くのを待ち、砂時計を逆さにひっくり返した。

「いつもは行かない場所に行った、お参りをした、何かを拾った、後は……誰かから恨みを買ったなど」

 沙穂のその言葉に、夏美の心臓が一度だけ跳ね上がる。

「一つだけ、あります……」

 辛い記憶が蘇る。寒くはないというのに、手が冷えて震える。砂時計の砂はまだ落ち切らない。

「恋人ができる一ヶ月ほど前まで、付き纏い……いわゆるストーカー行為を受けていました」

 白い顔のままキッチンに立つ夏美の手を取り、沙穂はゆっくりと椅子に座らせる。そのまま沙穂が何も言わずにバメイと目を合わせると、バメイは頷き、入れ替わるようにキッチンへと入っていった。

「職場の、上司だったんです。職場で優遇するから恋人になれと言われて__」

 思い出すのは自分と親子ほど年の離れた男。大きく荒れた手が酒の席で自分の足をまさぐる感触。嫌そうな素振そぶりを見せても夏美への嫌がらせをやめなかった、人生最大の汚点とも言える存在。

「……十分ありうる話だ。その男から調べたほうが早いかもしれないな」

 用意していた紅茶を夏美の代わりに淹れたバメイがトレンチにカップを乗せてキッチンから出てくる。立ちあがろうとした夏美をその場で制し、机の上に一つづつカップとソーサーを並べていく。

「無座法かもしれないが、許してくれ」

「すいません……私が淹れるべきなんですが……」

「顔色が悪い人間にさせられない」

 そのままポットから注がれていく紅茶を眺め、沙穂は落ち着くために紅茶を飲むように勧める。すっかりと立場がおかしいことになっていたが、夏美は二人の厚意に甘えることにした。

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