第六話 稲置沙穂という少女

 バメイが陽奈の背中を支えて去ると、学校の昇降口は少女の姿の化け物と白髪しろかみの少女だけが残された。

「よくも邪魔してくれたな……!」

 制服姿の少女が溶けていく。ドロドロと脂が固形から液体へと溶けていき、やがてその下からは黒い羽が現れた。山伏の格好に人の形でありながら鴉のような嘴と羽を持ち、ギラギラとした肉食動物の瞳が現れる。

「下法に手を出してまだその形を保っていられるとは、伊達に修行を積んだ天狗ではありませんね」

 身を震わせるような殺意を涼しい顔でいなし、沙穂は感心した様子で天狗を眺めていた。少女は頬に手を当て、少し困ったような顔でため息をく。

「実は調べている時に貴方に修行をつけていた大天狗と会ったのです。彼から言伝ことづてを預かってますよ。

『ただでさえ穢れを背負う我々であるのに、神の領域に手を出すとは何事か』と」

 その言葉に、目の前の鴉天狗はワナワナと拳を震わせて黒々とした大きい目を見開く。少女の言葉に思い当たることがあるのだろう。

「下法に手を出したのは大体200年前といったところでしょうか。貴方のその力の様子からしたら500年は生きていると思いますが、一体どうして堕ちてしまったのです」

「黙れ!」

「おや、図星でしたか」

 激昂する天狗をよそに、少女はあたかも日常の延長のように振る舞う。天狗の手から伸びる鋭い爪が今にも向けられそうであるというのに、沙穂は涼しい顔をして微笑んでいた。

「馬鹿にするなあぁぁぁ!」

 爪の伸びた大きな手が勢いよく稲置の細く白い白磁の首に伸びる。その手は、稲置の言葉一つだけで、柔らかい肌を傷つけることも首に触れることもなかった。

「下法は誰から習ったのでしょう」

 この時、初めて沙穂の顔から笑みが消えた。天狗がゆっくりと彼女の目を見れば、廊下を駆けて消えていった少女を見送ったような微笑みはない。

 ただ、冷え冷えとした吹雪の夜のような黒い瞳が天狗を見上げていた。

「その下法を教えた奴がいるだろう」

「ひっ」

 その冷えた瞳のあまりの恐ろしさに、天狗はじりっと足を後ろへと退げる。

「たかが500年の天狗如きが、人喰いで神へ手を伸ばすなど自分で知ることができるわけがない」

 天狗は少女が恐ろしかった。両手に武器など持っていない。可憐な少女といった出立ちの沙穂が、ただ真っ直ぐに冷えた瞳で見上げてくるのが恐ろしかった。

「答えろ。お前にその下法を教えた存在を」

 無力な少女を励まそうとした優しい声音からは想像もつかないほどの低い声が放たれる。

「答えろ!」

 怯えた天狗は、短い悲鳴をあげて二歩三歩と退がる。無力な少女のはずである。力があるなら今頃天狗は無事ではないはずだ。それなのに、目の前の少女が天狗は恐ろしくて堪らなかった。

「あ、……に、200年前に人を喰えば力が手に入るって教えてくれた、お、男がいたんだ!力のある子供を喰えば強くなるって!あ、怪しかったけど、本当に強くなれたんだ!」

 ついに天狗は恐怖に耐えられずに、命を乞うように叫ぶ。その天狗を変わらず冷めた目で眺める沙穂は、目を伏せて顔を逸らした。

「……お前もか」

「これ以上は追求しても意味はないだろう」

 天狗の背後から声がする。

「があ!?……あ?」

 次の瞬間、天狗の胸を背後から何かが貫いた。一瞬の出来事に何が起きたのか理解できなかったのか、天狗は間抜けな顔で胸を貫く刃を見下ろしている。胸を貫いていたのは一振りの鋭利な刀だった。

「あ、あ、ああああああああ!」

 自分が刺されたのだと理解した瞬間、天狗は慌てたように暴れ出す。しかし刀は抜くことも折ることもできずに、ゆっくりともっと深く刺さっていく。

「沙穂、外道の言葉に耳を傾ける必要はない」

「そうね。バメイ、あとはよろしく」

 その言葉を最後に、沙穂はその場を後にした。それを見送り、残されたバメイは深々と刺した刀を一度抜くと、目にも留まらぬ速さで豆腐を切るように天狗の首を切り落とす。

「……あれも、もう泣くことはないのか」

 断面から噴き出る血を浴びるも、バメイは気にせずにその場を後にして沙穂を追うようにして歩き出した。

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