第五話 探偵達

 いよいよ意識が遠のき、どこか冷静な思考が終わりを予感する。力の入らなくなった陽奈の手はだらりと落ち、垂れる唾液も鼻水も涙も思考の外だった。この苦しいだけの時間が終わった時が、己の死なのだと自覚する。そうすると、心臓から冷たい毒が広がったような心地がした。

「はは、諦めるのがおっそいよ」

 可憐な化け物は、冷たく乾いた表情で少女を嗤う。陽奈の滲んだ視界には、白い顔の化け物が映るだけだった。


カツン、と音がする


 化け物が視線だけで振り返る。


カツン、と音がする


 陽奈の首を絞めていた手から僅かに力が抜ける。


カツン、と音がする


「それで、堕ちた天狗は何になるんだ?」

 男の声がした。その声に驚いた化け物は陽奈から手を離し、声の主へと振り返る。堰き止められていた気道が開き、肺を満たす空気に崩れ落ちた陽奈は勢いよく咳き込む。涙を拭い顔を上げると、うねる髪を緩やかに肩口でまとめた褐色の青年が立っていた。

「バ、メイさん……」

 暗闇の中でもその美貌は翳ることはなく、神々が宝石から生み出したのかと思えるほどの青い瞳が輝いて見えた。

「どこから入った!」

 優奈は取り繕うことすら忘れたのか、年頃の少女の声ではなく、地獄の底で響くような聴くに堪えないしわがれた声で叫ぶ。暗がりの廊下から現れたその姿は、帽子と手袋が無いことを除けば陽奈が今まで会ってきたバメイその人だった。

「どこからって……そりゃあ、あんな貧相な紙一枚程度の結界なんて簡単に穴が開くからどこからでも入れるが」

「黙れ!唯人ただひとならば立ち入ることすらできぬ異界の、」

「それは相手が力のない人間である前提ですよ」

 今度は陽奈のすぐそばで声がした。気がつけば艶やかな白髪しろかみの少女が陽奈の肩を支えている。そのまま沙穂は手を支えながらゆったりとした動きで陽奈を立ち上がらせる。

「稲置ぃ……」

 化け物からは恨めしそうなしわがれた声が絞り出される。ゾッとするような睨め付ける視線を意にも返さない沙穂はそのまま陽奈を化け物から遠ざけ、初めて出会った時の黒いショールを少女の肩にかけた。

「よく、耐えました。この学校の屋上に“あれ”の結界の穴があります。どうかそこまで振り返らずに走ってください」

「稲置さんは……」

「私は平気です。さあ、渡したハンカチをしっかり手に持って」

 いつの間にか沙穂に手を取られ、手のひらにあの日渡された白いハンカチが乗せられる。辺りは数メートル先も見えないほど暗いのに、織り出された籠目模様だけがはっきりと見える。伏せられた黒曜石の瞳を縁取る白い天鵞絨のまつ毛がやけに美しいと陽奈は現実を逃避するように考えた。

「バメイ、彼女を守りなさい」

 その言葉にバメイは何も言わずに頷き、陽奈の背を支えて廊下から屋上へと続く階段に向かって二人で走り出した。

「バメイさん、稲置さんは大丈夫なんですか!?」

「大丈夫だ。あれは天狗如きには傷つけられない」

 熱い大きな手のひらが背中を支えてくれる安心感に、次は助けに来てくれた彼女への不安がよぎる。しかしバメイはそれを簡単に否定し、変わらず走る速度を陽奈に合わせて暗闇の廊下を進んでいく。いつも歩く廊下が、階段がやけに長く感じた。


 そうしてどれくらい時間が経ったのかはわからないが、階段の頂上、屋上へと出る扉の直前まで二人がたどり着く頃には、バクバクとうるさい心臓の音が陽奈の耳を痛めていた。

「振り返らずに、自分の足で出るんだ」

 バメイはそうして息も絶え絶えな陽奈の背中を押す。暗闇の恐ろしさもこの時だけは忘れて進んだ。一歩一歩ごとに近づく扉に、自分は助かるのだという安堵が胸に広がる。やがて耳を貫く心臓の音が落ち着く頃には、屋上の引き戸に手をかけていた。

 ガラリと勢いよく戸を開ける。そこは、ふわりと雪の舞う夕方の屋上だった。

「外に、出られた……」

 そのまま一歩足を出せば、するりと手の中にあった白いハンカチが飛んでいく。握る力が弱くなったのかと慌てて後ろを振り返れば、吸い込まれるように白いハンカチは扉へと消えていき、バメイの姿は見えなくなっていた。

「そんな……」

 沙穂が肩にかけたショールだけが陽奈を寒さから守ってくれいている。しかし、それも時間の問題で長く屋上に留まっていれば無事ではないだろう。

 ふらりと足元がぐらつく。めまいとともに視界がぐるぐると回る中、陽奈は瞼を閉じた。

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