春の畦にて

 この国では一日二食が基本であるが、日の出から夕暮れ時まで重労働に精を出す農民達はそれでは体が持たない。


 なので太陽が中天に懸かる頃に一食、食事を摂る。……腹を膨らます為の簡単な物だが。

 それでも、決して豊かと言えないこの郷、いや国においてはそれとて贅沢な部類の食事と言って良い。


 農民にとって米は、税として納める物か正月や祭事で神々に供えた後のお下がりくらいしか口に出来ない高級品。そして、稗や粟といった雑穀ですらその年の天候によっては不作になり、満足に収穫出来ぬ事もある。


 それ故に、雑穀の屯食――握り飯といえどもご馳走の部類であり、当然それを食す時はとても楽しげで賑やかな雰囲気になるのだった。


 亜梨沙に案内されて、そんな彼等の元に辿り着く。と、そこでは数人の男達が畦に座り込み思い思いに一息ついているところだったが、清弥達が近付いて来ると膝を付き控えようとする。


 清弥はそれを押し止めつつ、軽く手を上げ皆に挨拶をする。


「ああ、そのままで良い。

 皆、ご苦労だな。どうだ、捗っているか?」


「若様! はい、お陰様で」


 その労いの言葉を受け、皆は笑顔で口々にそう応じる。


「これは若様。それに仁……いえ、元服なさって今は仁輔様と呼ばねばなりませぬな。

 ささっ、こちらへどうぞ」


 その中の一人。恰幅の良い壮年の男性が彼らに頭を下げ、尻に敷いたゴザを譲ろうとする。


 だが清弥は、


「ああ、それには及ばぬ。俺はここで良い。

 それより、郷長自ら畑仕事か?」


 と、畦の僅かな傾斜に腰を下ろす。

 仁もその隣に控える。


 男の名は羽倉清兵衛。嵯峨家の郎党の一人で、郷の実力者として郷長を務めている。そして、亜梨沙の父親でもある。


 郷長とは一言で言うと纏め役である。その職責は領主から田畑を借受けて耕作する作人を指揮して、収穫物の一部を年貢として納める事。民の住まう郷における嵯峨家の代理人で、徴税官という訳だ。

 実際に畑に出る必要は余りない。


 しかし清兵衛は、訝しげな清弥の問いに苦笑しながら応える。


「いえいえ。もうすぐ春の御祭事の時期。あちらこちらに色々と話を通さなければなりませぬ故」


「ああ、そうか。もうそんな時期か」


 田植えが始まる前に、山神様をお迎えして五穀の豊穣を願い祈る。それがこの郷における春祭である。

 その準備や打ち合わせで清兵衛は忙しいのだろう。


「なるほどな」


 そんなやり取りをしていると、亜梨沙が竹の皮で包まれた屯食を運んで来た。


「若様、仁様! おまたせしました」


 そう言いながら清弥と仁の間に腰を下ろす亜梨沙。


「おい! 何故僕と若の間に座るんだ!あっちへ行け!」


 と、仁は語気を荒げるが、亜梨沙はそれを全く意に介さない。

 先程、馬を間に割り込ませた事に対する意趣返しだろうかと、清弥は少しおかしくなる。


「若様、どうぞ。今日は菜の花漬けもありますよ」


「うむ。これは旨そうだ、ありがたく頂こう」


 亜梨沙の言葉に笑顔を返しつつ、清弥は屯食の包みを開ける。中には拳大くらいの屯食と、早春に取れた菜の花を塩に漬けた菜の花漬けが入っていた。


「おおっ! 亜梨沙の家の漬物は旨いからな!」


 と、清弥は上機嫌でその菜の花漬けを口に放り込む。


「お、これは……」


 強い塩気と仄かな苦み、そしてこの季節には珍しくシャキシャキとした歯ごたえのある食感が何とも心地好い。


「うん、旨い! これだけでいくらでも屯食が食えるな!」


 と、清弥が声を上げると、亜梨沙は嬉しそうに微笑む。


「良かった。……その菜の花漬け、私が漬けたんです!」


「ほほう、そうか。亜梨沙が! 亜梨沙は料理上手だな」


 清弥の賛辞に、亜梨沙は少し顔を赤らめてはにかんだ。嬉しさと恥ずかしさが入り混じったような不思議な表情だ。


「いえ、そんな事はありません。まだまだ修行中です!」


 そんなやり取りを横で聞きながら仁は軽く咳払いをする。


「若、亜梨沙を余り甘やかすものではありません。こんなに不必要に塩辛くして、塩の無駄使いです」


 その苦言に、亜梨沙は少し拗ねたような表情を見せる。


「仁様! もうっ、何時もそうやって意地悪ばっか!」


「ふん、僕は本当の事を言っただけだ」


 そんな二人のやり取りを尻目に、清兵衛が清弥に話しかける。

 それは何処かこちらを窺うような、湿り気を帯びた声色だった。


「ところで若様、近頃……おばば様は何か仰っておりませんでしたかな?」


「……何か、とは?」


 と、一瞬言葉に詰まりそうになりながらも清弥はそう問い返す。


「いえ、変わった事とか……」


「ふむ……そうだな、別にこれと言って気になる様な事は無かったと思うが。――何故だ?」


 清兵衛が何を言いたいのかおおよその察しはついた。

 だがあえて気づかぬ振りをしつつ清弥は淡々とそう答えると、清兵衛はボソリと呟く。


「いえ、それなら良いのです。

 ……そう。その方が良い」


 まるで己に言い聞かせる様に、何度も、何度も、首を上下に振りながら。

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