盟約
その後、清兵衛は特に不穏な台詞を言う事もなく、屯食を平らげた清弥は丁寧に礼を言いその場を後にする。
「何だ、亜梨沙も戻るのか」
「あら、いけませんか仁様?」
「僕は元服したんだ。今は仁輔だ」
馬上の人となった仁と清弥の馬に相乗りする亜梨沙。
二人がそんな声を掛け合うのを清弥は笑いながら聞いている。
だが何処かぼんやりと、上の空な気がして。仁は清弥にそっと話しかけた。
「若、如何なされましたか?」
「ん? ……いや、何でもない」
歯切れ悪く、そう答える清弥に何か言いたげに視線を送った仁。
だが清弥は仁に視線を合わせることはない。
「もしかして、さっき
唐突に清弥の前で馬に横座りしている亜梨沙がその顔を覗き込む様に尋ねる。
そこにあるのはただ心配そうな表情。
そして、その言葉は仁の図星を突いていた。
じっと亜梨沙を見詰める清弥。
亜梨沙はその視線に耐えられず、思わず顔を伏せる。
やめてくれ、そんな顔は。
そう、思い出したくない事を思い出すから――
****
かつて清弥の祖先が流れ着く以前から、この地にはある者達が暮らしていた。
山神を崇め、土地を耕す暮らしを良しとせず、山野に依りて獣を狩り、木の実を採集する暮らしを営む者達が。
磐境山地の麓の住人からは彼らは単に山の民と呼ばれていた。
他に呼びようがなかったのだ。彼等は文字も知らず、土地の者と交易を行う事もなかったのだから。
ただ時折麓の村の猟師などがその影をチラリと見て、畏怖と共にそう呼んでいただけの謎めいた集団。
そんな彼らの助けがあったからこそ今の谷での暮らしが成り立っている。
それがなければ、先祖は皆その年の冬には屍を山野に晒していただろう。と、その話を聞いた時に清弥はつくづくそう思った。この地での暮らしは全く土地勘の無いものにはとてもじゃないが、営めるものではないのだから。
もちろん、山の民も無条件で清弥の先祖達を受け入れた訳では当然無かった。
往時の嵯峨家当主・
取引の内容は、
長らく身内のみで代を重ね、濃くなりすぎたそれを薄める血を山の民に提供する。
その代わりに、山の民は嵯峨党の谷での暮らしを認め庇護する。
当時の事情を知るものがほぼ居なくなった今となっても、山の民は盟約に則りこの谷を見守り続けている。
それが彼等のやり方であり、そしてそれ故に……彼等は約束を守る事をこちらにも求めるのだ。
****
郷の民は全体で凡そ六百。家の数は二百戸といったところ。
たかが六百人と言ってしまえばそれまでだが、この大して広くもない谷底で暮らすには些か窮屈な数である。
谷底を削り取るように流れる急流と急峻な山肌に挟まれた僅かばかりの細長い平地。そこに肩を寄せ合うようにして家々が軒を連ね建っている。
そんな集落の中程に清弥の住まう嵯峨家の館はあった。
築地の上に築かれた土塀と空堀に囲まれた館は武家の屋敷としては慎ましやかな物で、質実剛健を旨とする谷の暮らしととても良く似合っている。
鬱々としたまま亜梨沙と別れ、そんな館に戻って来た清弥と仁。
別れ際まで、こちらを心配する亜梨沙に結局何も言ってやれない己に清弥は自己嫌悪を覚える。
……亜梨沙にも気を使わせているのは解っているのだが、どうしても話題にあげる事が出来ない。
亜梨沙の事を想えばこそ。
何より……それは清弥にとって触れられたくない忌まわしい記憶でもあるのだ。
「若……」
そんな清弥の様子を察したのか、仁が気遣うように声をかける。
「ああ……いや、何でもない」
何時もは何かと煩い仁だが、この時ばかりは何も言って来る事はなかった。
それすらも清弥の気分を重くする。
そんな重い気分を抱えたまま馬を厩に繋いだ二人は館の玄関に向かう。
と、そこには清弥の父でありこの嵯峨家当主である
わざわざ一家の当主が外出から戻った息子を出迎える。
それだけでも不思議なのだが、更に辺りには不気味な程に人気が感じられない。
館の雑務を担う奉公人どころか、本来主の側に侍るべき者達すら姿がないのはいかにも不穏だ。
清孝は烏帽子を被った四十過ぎの男だ。
普段は名門の嫡流らしく柔和な笑みを絶やさぬ男なのだが、今は眉間に深く皺が刻まれ、それは仁ですら思わず一歩後ずさる程の気迫を漲らせている。
「……戻ったか清弥」
「……はい。ただいま戻りました」
重々しい声の父に返事を返す清弥の表情もまたいつになく硬い。
「遅かったな……」
「……申し訳ありません」
神妙な顔で頭を下げる清弥に清孝は溜息を一つ吐くと、
「おばば様がお呼びだ。早く行け。
あと……仁輔は置いて行け」
と、そう告げた。
「おばば様が……解りました」
一瞬、清弥は顔を強張らせるがすぐに気を取り直して館の中へと入って行く。仁はそんな清弥を心配げに見送りつつ、清孝に尋ねる。
「御屋形様、……おばば様は若に如何様で?」
「……何も分からん。
いつも奥の庵に閉じこもったままでワシもここ何年も顔すら拝んでおらん。表に出てくるのは若い侍女のみ。
それでいて郷どころか世の世相すら当ててみせるお方がお呼びなのだ、無碍にするわけにもいかんだろう」
眉間にしわを寄せながらそう応える清孝に、仁もこれ以上かける言葉を見つけられず黙り込むのみ。
ふうっと、寒々とした空気が薄暗い館の中を流れて行った。
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