青雲、ひとひら〜皇国群雄興亡記・抄録〜

ほらほら

風花の誓い

「――若。――若様!

 起きて下さい若!!」


 若干、甲高い……というよりは未だ声変わりを迎えていないらしい、そんな子供の声が耳に届く。


 未だ脳が覚醒しておらず、自分が何者であるかも思い出せない。


 ゆっくりと目を開いてゆくと幹周りが十間はあろうかという楠の大樹の枝葉から零れた陽射しが、未だ微睡みの余韻の残る眼に染みる。


 陽の光の眩しさに僅かに顔を顰めつつ、柴に覆われた楠の根元からゆっくりと身体を起こすと、そこには脇差のみを腰に帯びた年若い武者が一人片膝を地に付けこちらを覗き込んでいた。


 少年と呼ぶにも未だ幼い。それでも萌黄色もえぎいろ直垂ひたたれに身を包み、栗色の総髪を後ろに纏め淡い紅色の紐で結わえたその姿は年相応の愛らしさの中にも武家の風格を漂わせている。


「――じんか……如何した」


 まだ眠気が抜け切れておらず、幾分かぼんやりとした声で若武者の幼名を呟くと、そんな声に反応したのか、キッと目尻を吊り上げた若武者は叱責の声を上げた。


「如何したでは御座いませぬ、若様! また勝手に館を抜け出して斯様な所に……また御屋形様に叱られますぞ!」


 生まれて此の方、乳兄弟として側に侍り、気心も知れた存在。

 だからこそだろう。若様と自分を尊称しながらも、そこに隔意は微塵もなく、とても気安いものだった。


 それが心地良く、何処か可笑しくて、若様と呼ばれた少年はくつくつと笑い声を立てるとバッと反動を利かすように立ち上がった。


「――そう言うな、俺はここが好きなんだ。此処から眺める郷の景色が、な」


 清々しく柔らかな春風が二人の間を吹き抜けてゆく。


 険しい峰々に囲まれたこの郷では、視界の開けた土地は少ない。四方を囲む様に山の稜線が何処までも続いている。


 だが山腹の原、郷を見守るかのように根を張る楠の古木が聳えるこの場所からは、峻険な山の谷間に張り付くように段々に拓かれた郷の風景が一望できた。


 山野の緑、光の輝く棚田の水面と菜や大根等の植えられた畑、谷底を流れる川の流れに家々から沸き立つ炊煙。それらが、陽光を山々が遮る事で表れた明暗の差で強調され、彩られた郷の光景はホッと溜息が出るほど美しいと、少年にはそう思えるのだった。



 この、皇国を治めるすめらぎのおわす都から舟で二十日、馬で十日の所にある天険の地、磐境山地いわさかさんち。古から人智の及ばぬ神域として畏れられたその深山幽谷に分け入ること更に三日。


 神代の頃、国造りを行った神々がこの世の柱石たらんとして作り上げたと言われる霊峰・神奈備かんなびを仰ぎ見る様にあるのが、ここ神籬谷ひもろぎのたにである。


 ――彼の一族郎党がこの地に流れ着いて幾年月。山野を一から切り拓き、荒れ地を耕し田畑を作り、家を建ててやっと手に入れたこの暮らし。


 決して豊かとは言えない。だがそれでも、この郷の民はそれを苦と思う事もなく日々を懸命に生きている。

 そんな人々の営みは、何故だか何時も目を奪う程に美しく感じられるのだ。


 そう、ある種の感傷に浸る葡萄色えびいろの直垂を身に纏った少年。

 彼の名は清弥しんや


 つい先日、二歳年下の仁と共に元服を迎えたばかりの少年だが、その相貌からは子供らしい柔らかさが消え、もはや青年といってもよい程に大人びている。


 背の中程に届くまでの燃え上がるような赤毛と相まって、その威風堂々とした様は齢十五の少年とは思えない程だ。


 だが、それでこそ嵯峨家の次期当主に相応しいと、仁は思う。


 清弥はこの地を治める嵯峨家の嫡男として生まれ、仁はその乳兄弟としてこの世に生を受けた瞬間から彼の後に付き従い、時には主従の垣根すら越えて共に在り続けていた。


 清弥の人柄をまだ満足に言葉も話せぬ頃から傍らで見て来た仁は良く解っている。


 一家人の子でしかない仁を弟の様に可愛がる一方で、その生まれからくる高い矜持と気位を決して損なわない。


 武家に生まれた者として幼い頃から日々鍛錬を欠かす事も無く、その弓馬の才は彼より余程年嵩の剛の者ですら舌を巻く程。兵書や経文の類いにも造詣が深い。


 にも拘らず、それを笠に着る事も無く、民に混じり畑を耕し、郷の祭りや行事にも自ら進んで加わる事で身分の垣根無く諸人に慕われて、未だ年若いながらも堂々たる立ち振る舞いは会う者全てを敬服させ、民を慈しむ姿勢は人々から好意をもって受け入れられていた。


 そんな少年が、仁には狂おしい程に愛おしくて仕方ないのだ。


 だが、それは最早主君に対する忠誠というには篤過ぎて、父や兄に向ける親愛と言うにも慕わし過ぎた。


 恐らく更に原始的で根源的な、人間の根幹を成す感情なのだろう。


 しかし仁とて未だ齢十三の若武者。

 元服したとはいえ子供に毛が生えた程度に過ぎぬ身である。己のその感情が何たるかを推し量るには余りにも幼く、そして純粋であった。


 ……だがそんな感情を抜きにしても、一族郎党・領民を率いるに足る将器が清弥には備わっているように仁には思えるのだ。


 だからこそ思う。


 惜しいと。


 我等が都にあった頃なれば、やがては天下に比類無き侍大将としてその名を都どころか諸国に轟かせた事だろうと。

 かつて武の名門、軍事貴族・嵯峨党として都に在り、大いに威勢を張った頃なれば。


 ――しかし、宮中での政争に巻き込まれ、多大な流血と苦難の後に一族は離散。その一部が命からがらこの地に落ち延び、以降は甲羅に閉じこもる亀の如く逼塞するのみ。


 そんな現状では主の栄達など夢のまた夢。


 それに今では我等と大いに争った仇敵が我が物顔で都を差配しているという。

 寧ろ、かつての敵対者としていつ攻め滅ぼされてもおかしくはない。


 百年近く、微塵もそんな動きが無かったという事は、踏み潰す必要すらない些末な存在と思われているのかもしれないが……。


 都なぞ想像もつかない鄙の地で生まれ育った仁にとって、未だ過去の栄光に執着する一部の年寄りなど愚か者の類にしか見えない。


 しかし、それでも。自らの心服する、……愛情すら抱く主君がその威も得も世に示す事無く朽ち果ててゆく。仁には、それが酷くやるせなく感じられるのだ。


 だからこそ、つい、その胸中が零れてしまう。


「……若。若はこのような地で納まるべき方ではないのです」


 常に清弥に対する親愛の情と憧憬を心に抱き、清弥からも信頼され可愛がられていると自認する仁であっても、彼に己の心中を正直に吐露するなど滅多にある事ではない。

 恐れ多い……とはまた違う。


 長く側に居るからこそ分かる事もあるのだ。


 ――壁、と言うのだろうか。


 どんなににこやかに過ごしている時でも、彼にはどこか人に踏み込ませぬ領域のようなものを感じるのだ。


 それを一寸でも踏み越えてしまえば、一刀の下に斬り捨てられてしまうような、そんな薄ら寒い予感。


 故に仁は『言い過ぎた』と思いギュッと身を固くする。


 だが、清弥は飄々としてそんな言葉をまるで意に介さず、僅かに首を傾げて仁を見遣っただけだった。


「何を言うか仁。俺はこの暮らしを気に入っているのだ。日々田畑を耕し、弓馬を嗜み……そして暇があれば、こんなふうに昼寝に興じる。

 ……そんな暮らしがな」


 くつくつと、まるで悪戯小僧の様な笑みを浮かべながら呟くと少年は再び郷へと視線を戻した。


 そこにあるのはあくまでも、楽しげな笑みと楽しげな声。

 だがどこか、空虚に思える。


 そう、それはまるで……まるで何かを諦めるかのようで。


 決して、超える事の出来ない隔たりで。

 その隔たりの向こうから、清弥はふと仁へと向き直る。


「この暮らしも悪くない。……だろ?」


「……ハッ」


 戯けた様にそう問われれば、仁に返す言葉はそれしかない。

 仁はあくまでも清弥の乳兄弟であり、それ以上でもそれ以下でもないのだから。


 ※※※※


 馬に跨がり、つづら折りに続く山道をゆるゆると下ってゆく清弥と仁。


 ここ神籬谷ひもろぎのたにと磐境山地の麓の村とを結ぶこの道は、年に数回訪れる行商人くらいしか利用しないため酷く荒れ、獣道と大差がない。


 それでも山里であるこの地では生産出来ない塩、その他の生活必需品をこんな所まで運んでくる商人は郷にとって貴重な存在であり、故に彼らの利用する道の維持には郷の者達も出来る限りの労力を割いているのだが、いかんせん人口六百程のこの郷では労力と作業量が釣り合わず、いつも後回しにされていた。


 そんな道を暫し進むと、鬱蒼とした森が唐突に途切れ、フッと視界が開ける。耕作地に出たのだ。


 山肌の木々を一本一本切り倒し、その根を丹念に掘り、拓いた土地に谷底の川から拾い上げた大きな石を一つずつ積み上げて作られた段々畑と水の張られた棚田群。そして、そこで働く郷の者達。


 陽光に照らされたそれはまるで一枚の水墨画の如く、清弥の目にはとても美しく映る。


 何故か、そこに先程の仁の表情が重なる。あの、酷く思いつめた表情が。


 ふっと清弥は軽く頭を振る。


 この棚田の一段一段、畦の一本に至るまで、先達たちが血の滲むような苦労の末に手に入れたものだ。


(それを思えばこそ、その土地を無闇に荒らすような真似は出来ぬ。

 我等は許された訳ではないのだ……あくまで放逐されているだけ。

 野心と取られかねぬ言動は、仁相手であっても慎むべきであろう)


 でないと内も外も収まりがつかぬ。と、そう己に言い聞かせ清弥は馬上からその景色を飽きもせずに眺める。


 それは、この風景に郷の者達の生活が守られているという実感を得てのことだったのか。

 それとも……


「若……」


 仁に声をかけられ我に返ると、彼は畦の一角を指差していた。そこには畑仕事に精を出す人々の側で腰に手を当ててこちらに向かい仁王立ちする小袖姿の少女が一人。


「若様! やっと戻って来た!」


 声を張り上げて駆け寄ってくる少女。それを受けて清弥は悪戯っぽい笑みを浮かべながら仁に言う。


「どうやら出迎えが来たようだ」


 その言葉に、仁は答えず


「こらっ! お主、また若にそのような口をきいて!」


 と声を上げるとその少女と清弥の間に割り込む形で馬を進めるが、少女は馬の扱いに馴れているらしく、さっと仁の馬の口を取ると難なくそれをいなしてしまう。


 仁の説教を聞いているのかいないのか、少女は清弥の前に到着するなりプクリと頬を膨らませた。


「若様! また黙って出かけて! 駄目ってもう十回は言いましたよ!」


 そんな少女に清弥はカラカラと笑ってみせる。


「何だ、数えていたのか?」


「数えるに決まってるでしょ! もうっ、何度も急にふらっといなくなってみんなに心配かけてるんだからね!」


「ああ、悪い悪い。

 以後気を付けよう」


 そのやり取りを聞いていた仁がため息をつきながら清弥に言う。


「若、相変わらず亜梨沙と仲の宜しいことで……」


「何、仁。お主は俺の事を妬いておるのか?」


 ニヤリと笑って見せる清弥に、仁は苦虫を嚙み潰したような顔で応える。


「冗談でもその様な事を仰らないで下さい」


 二人のやり取りにクスクスと笑いながら少女は清弥を見上げる。


 少女の名は亜梨沙ありさ。郷を取り纏める|郷長、いわば名主の娘であり今年で齢は仁と同じ、今年で十三になる。


 比較的歳が近い三人は有り体な言い方をすれば幼馴染であり、幼少の頃から身分差を越えた関係性を築いていたのだ。


「若様、仁様を揶揄うのはそれくらいで。それよりこれから皆で間炊を摂るのですが一緒に如何ですか?」


 亜梨沙がそう尋ねると、清弥は満面の笑みで応える。


「む! それは有り難いな! よし仁、馳走になって行こう」


「……はぁ」


 余り乗り気でなさそうな仁を余所に、清弥は馬を降りて畦道へと降り立った。そして、そんな彼を眩しげに見上げる少女の視線に気づき、清弥はその頭をグリグリと撫でる。


 清弥に似た緋色の長い髪を後ろで束ねた少女は、


「もうっ! 若様っ、子供扱いしないでください!」


 と頬を膨らませるが、それを意に介さず清弥は破顔し


「子供扱いなぞしておらん。お前は立派な郷の一員だ」


 と、嘯くと、少女は少し寂しげに微笑み返す。


「はい、ありがとうございます。

 ……さあ、あちらに。屯食を握ってきましたのでお召し上がりください」


「……ああ」


 決して小さくない胸の痛みを表情の奥に押し込めて、清弥は亜梨沙の後に続くのだった。

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