第4話 元弘の乱
恋志姫の一行はその後伊賀を越え、安濃津を経て無事に伊勢の国に到着した。伊勢神宮にてご祈禱を受け、後醍醐天皇の息女が斎王を務める斎宮を訪れ、しばらく逗留をした後に笠置への帰路についたのである。
「もうすぐ帝のおられる笠置に戻れる。ああ、早うお逢いしたいものじゃ。のう、烏羽玉や。」
恋志姫はそう言うと烏羽玉の頭を撫でながらにっこりとほほ笑んだ。しかし、その頃笠置山では大事件が起きていた。『元弘の乱』である。天皇が比叡山にはいないことに気付いた幕府側は元弘元年九月一日(西暦一三三一年十月三日)宇治において七万五千人もの兵を集め、翌日には笠置山を包囲してこれを攻撃し始めた。天皇側の兵は僅か三千余と戦力の面では圧倒的に不利な状況ではあったが、笠置山は天然の要害ということもあって幕府側相手に善戦していた。
そしてこれに呼応するように各地で討幕の狼煙が上がったのである。その中に、あの『楠木(くすのき)正成(まさしげ)』の姿もあった。
後醍醐天皇は笠置山の笠置寺に行在所を設けたが、自身の周りに名のある武将が全くいないことに不安に感じていた。
(朕が頼れる様な勇猛果敢な武士は何処にかおらぬのか。)
思い悩んでいる日々が続いたある夜、不思議な夢を見たのである。場所は定かではないが、綺麗に整ったとても静かな庭に立っている。そこに一際大きな一本の木があり、南に向いて手を広げるがごとく枝を伸ばしていた。その下には数人の官人が各々の位の順に座っていた。そして南に設けられていた上座にはいまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていると、一人の童子がやって来て「その席はあなた様のために設けられたものでございます。」そう告げるとすぅーっと空に上って行っていなくなってしまった。夢から覚めた後醍醐帝は夢の意味をしばらくの間考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることにふと気付き、
「誰かある」
と近習を呼ぶと
「この笠置の近くに楠の一字を名乗る武士がおらぬか探してまいれ」
と夢のお告げに従い武将探しを命じた。しばらく後、河内国(かわちのくに)の金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に楠木正成なる者がいるという。
「楠木正成と申すか、正にお告げの通り。直ぐに使いを出し、朕の下に来てもらえぬかと伝えよ。」
と急ぎ使いを出し、正成を笠置山に呼び寄せた。程なく正成は笠置にやってくると、
後醍醐天皇に面会し、
「帝御自らのお召し抱え、恐悦至極にございます。この正成、河内の悪党などと呼ばれておりますが、我が民を守るために幕府と戦ってまいりました。これよりは帝の御為に必ずやお役に立てると自負しております。」
「正成、頼りにしておるぞよ。」
「ははっ、お任せくださりませ。」
そう言って後醍醐帝を大いに喜ばせた。その後、楠木正成は一旦河内に戻って体制を整える事としたのである。そして今一人、笠置山で獅子奮迅の働きをする武将がいた
『足助(あすけ)重範(しげのり)』である。
足助重範は三河の国加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市足助)の生まれで、飯盛山城主であった父貞親が、正中の変の際に後醍醐天皇の倒幕に参加するために京都に入ったが、六波羅探題に露見され、少数の軍勢で交戦するもあえなく戦死。弓の名手としても知られる重範は、父の後を継いで元弘元年、錦織俊政らと共に後醍醐天皇を御守りする為と、笠置山にあった帝の元へ最初に馳せ参じた武将である。
勇猛な武将探しをしていた後醍醐天皇はことのほか喜び、
「親子二代で朕に尽くしてくれるとは、なんと義に厚きもののふである。頼りにしておるぞよ。」
そう言って重範をほめたたえた。
「この重範、亡き父に代わり、帝の御傍にて存分の働きをして見せましょう。」
そう答え、その言葉通りの働きを見せるのである。
多勢にて笠置山を包囲したのは、北条一門の大仏貞直という武将が総大将を務めた鎌倉からの大援軍であり、その中には後の室町幕府成立を成し遂げる足利尊氏も加わっていた。足助重範は天皇側の総大将を務め、自ら一の木戸に陣取ると、自慢の強弓を持って押し寄せてくる幕府軍を撃退し、一歩も退かなかった。また、奈良・般若寺の僧で本性坊という怪力無双の荒僧は巨大な岩を次々と投げ落とし幕府軍を翻弄していた。一方、地形上弱点となっていた南側は柳生の地であり、春日神社の荘園であった。柳生の一族は天皇側に付き、南の抑えとなっていた。僅かな兵力ながら幕府軍を寄せ付けない天然の要塞笠置山。その地の利を活かして天皇側はおよそ、ひと月の間奮戦を続けていたが、九月二十八日(西暦十月三十日)の未明、風雨の中、幕府側の陶山義高らが山の北面から天皇軍の背後を突き、笠置寺に火を放ったのである。
これに驚いた天皇側は総崩れとなり、あれだけ敵を寄せ付けなかった笠置山もついに
陥落したのであった。
「一刻も早く帝をお連れし、笠置を離れよ‼」
側近にそう怒鳴ると、足助重範は弓を片手に後醍醐天皇を逃がすべく、燃え盛る寺内を奔走し、退路を作って後醍醐天皇を山中へと逃した後に捕縛され、翌二年五月三日、京都六条河原でその生涯を閉じた。
側近に付き添われ山中をさまよっていた後醍醐天皇もあえなく捕縛され、京の都に連れ戻された後、翌二年三月七日(西暦一三三二年四月二日)隠岐の島へと流されたのである。
「うかりける 身を秋風に さそはれて
思わぬ山の 紅葉をぞ見る」
後醍醐天皇
笠置山は炎と共に真っ赤な紅葉が燃え盛っていた。
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