第4話

 それから、1週間ほど入院したが、検査結果も異常はなく、体力も回復したので退院となった。久々の我が家に無性にドキドキしたが、記憶はなくても、体は覚えているようで、部屋の雰囲気は違って見えても、全く違和感なく体が馴染んだ。

 変わったことと言えば、夫が家に着くなり、温かいコーヒーを出してくれたこと。私の入院中に、たっくんと二人で家事をこなした賜物だろう。ダイニングテーブルの席に着き、コーヒーをすすりながら、キッチンに立つ夫を見ると、なぜだか、涙があふれてきた。

「な、なんや? どうしたんや? どこか痛いんか?」

ギョッとした顔で、慌てふためく夫。

「ううん……。違う。なんだか、わからないけど、涙が出てきただけ」

滅多に泣かない自分の涙に私自身も説明がつかない。


「ちょっと、2階に上がってくるね」

二階に上がると、悠紀の部屋はすっきりと片付けられ、男児の部屋も仕切りが取り除かれ、高校生になったたっくん……達也の勉強机とベッドだけになっていた。


 入院中、お見舞いに来てくれた、達也の成長した姿には、何度見ても戸惑ったが、中身はのままだった。


「おかあさん、はやめてよ……。中学から、って呼ぶようにしてもらったんだよ……」

上背もある低い声の男子高生にそう言われて、「たっくん」呼びは恥ずかしいと気付く。

 

 あんなに小さかったたっくんが一瞬にして、高校生になった。学生だった、悠紀も智也も大人になってしまった。どんなふうに成長したんだろう……。確かに共に歩んだ10年間があったのだ。でも、私にだけ、その10年間がない。


 結婚して、妻になって、母になって、誰よりも早く、朝、目が覚めると、変わらない毎日が始まる。朝食を作り、弁当を作り、家族の健康観察をして、見送る。洗濯をして、パートに行って、買い物を済ませ、帰宅すると、洗濯をたたみ、夕飯の支度をしながら、子どもたちの宿題を見たり、学校での話を聞いたりする。夕飯を食べたら、片付けをして、風呂を沸かし、学校からのお便りに目を通す。学校行事に参加したり、役員に当たれば役をこなしたり、ママ友付き合いもあったりする。子どもが病気になった時は、予定をリスケして、看病もする。思春期なると、心理的ケアや、進学に向けてマネジメント、家計のやりくりまで、こなさなければならない。


 母とは、経営・医療・マネジメント・保育・教育・心理・運営…、家計も、看護も、相談も、育児も、メンタルケアもできる、多能・万能の何でも屋だ。多分野のスペシャリストだと誇りを持っていた。しんどく思うこともあったが、もともとが、姉御肌、頼られることに喜びを感じる性格だった。それゆえ、家族があって、私の多幸感は満たされるのだ。その10年間が失われてしまった。子どもたちのその時々のキラキラした瞬間の記憶をいくつ失くしたのだろう。喪失感に駆られる。


 達也が帰ってきた。

「おかあさん、帰ってきた?」

「おお。今、上に居てるわ」

キッチンで何やら作っている様子の夫と達也が話をしているのが聞こえてきた。涙を拭い、階段を下りる。

「おかえり、たっくん」

「おかあさん、たっくんはやめてって言ってるでしょ! ……どうしたん? 泣いてたの?」

「ううん。大丈夫。ちょっと感傷にひたってただけ。……夕飯、作らなきゃね!」

「今日は、俺がカレー作ってんで。お前は退院したばっかりなんやから、ちょっと休んどき」

「そうそう。お父さんと二人で一カ月、やってきたんだから大丈夫。お母さんはゆっくりしてて」

本当なら、夫と息子の気遣いに喜ぶべきところなのだろうけど、私の心はチクリと痛んだ。

「そうね……。じゃぁ、お願いしちゃおうかな……」


***


 日を追うごとに『55歳になった自分』にも慣れ、パートも復帰し、10年前とあまり変わらない日常がまた戻ってきた。



 


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