第12話 悪夢
くそったれ。
悪態をつくのは、まだ余裕がある証拠だ。
改善する、打開策を用いる、何かしらの手段を講じる、それこそ逆転の一手を模索し解決に導く、出来得る範囲内のことだ。
だが、眼前にあるこの封筒は、一切合切の手段を封じる…違うな。
開けた瞬間に詰む、そう思わせるものだと。
勘などではない、二度目だからだ。
一度目のそれを俺は見て、その結果を知っているからな。
ズタズタにされた、その結果を。
捨てるべきだった。
友也は、その選択肢を取ろうとしたはずだ。
それが運の悪い事に、中身を見る選択を取らざるを得なかった。
真実だろうが事実だろうが、全てを知って向き合わなければならない、なんてことはない。知らなくていいことを、俺は学ばされた。
だから捨てた。
開封などしない。
二番煎じとは、あいつも芸のないイカレ野郎だったな…そんな軽口をたたきながら。握り潰したり、燃やさなかったのは、今思えば…恐かったから、かもしれない。
そんなことをする価値すらないと、自分を偽って―――
でも結局、考えなしのバカだから、気にしない関係ないと余裕ぶってたつもりで、内心は動揺しまくっていたんだろう。家の中のゴミ箱に捨てて、出勤してしまった。
俺が開封しなくても、別の誰かが開けてしまえば、何の意味も無いのに。
マヌケ以外の、なにものでもない。
*
なんとなく…こうなる予感はあった。
人を不幸にしておきながら、自分だけ幸せになるなんて、そんな都合のいいことが許されるわけないんだと。
あいつらに対してやったことを、後悔なんてしていない。
やられたことを、やり返してやったんだと…半分は心の底では思っている。
でも、もう半分が…教育者としての、人を育て幸せになる一助を
身重であっても、全く身体を動かさない方が、かえって悪い。
響一は、ああ見えてかなりの臆病者なので、私が腰を上げるたびに、大丈夫か? なにか手伝うか? と心配してくる。構って欲しいオーラが滲み出てる、大型犬のゴールデンレトリバーみたいで可愛い。
だから響一が仕事でいない時に、代わりに来てくれているお義母さんの方が、
「綾香さん、無理なく、つらくない程度でいいから、身体を動かしなさい」と。
大きくなったお腹が身体の動きを阻害するが、嫌だなんて思わない。
赤ちゃんだって、私の中で頑張って成長してるんだと思うと、私も母親として負けてられないわと、対抗意識を燃やしてしまう。
家事の大半はお任せしてしまうが、各部屋のゴミを指定収集袋にまとめて、玄関に持っていくことくらいは私にも。
だから、響一の使うデスクの横のゴミ箱も、当然確認する。
ゴミ箱には封を切っていない、封筒がはみ出ていた。響一は、そそっかしいんだからと手に取ってみると、宛名は響一と私に…差出人は、
『不破木結生』と書かれていた。
なぜこの人が!? うちに関係も無ければ用なんてないはず…。
菫のことで、まだ何かするのだろうか? 様々な推測が頭の中を駆け巡る。
すぐに中身を確認しようと、封筒を開け…ちょっと待って。
響一は、なんでこれを開けなかったの。この差出人を見て、すぐに捨てたりする? 怒りだして中身を見るか、私に相談すると思う。
妊婦の私に配慮して、言わないこともあるだろうけど。
響一が帰って来てから、一緒に中身を見て判断しよう。
その選択もまた、間違いだったのか、誰にもわからない。
*
家に帰るとすぐに、綾香はあの封筒を俺に見せてきた。
しまった、と思ったのも後の祭り、綾香はこのいわくつきのモノを、どうするの? と尋ねてきた。
「これは、捨てよう」
「でも、もしみんなに何かあったら」
「くだらない
「そうかもしれないけど…」
綾香を不安にさせ続けるのも、母体に悪い。
俺だけでサッと見て、もしヤバそうなら今度は確実に捨てればいいか。
俺も綾香もお互いに、隠し事なんかしてないしな。
不破木が、まだ友也と菫さんに危害を加えようとするなら、今度は徹底的にやってやる。剛とあかりの力も借りて、全員で対処すればいい。
「俺がチェックするから」
「響一が一人で見て、冷静に判断できる?」
「こ・ど・も・か、俺は…」
「私から見たら、でっかい子供よ」
言い切られると、ぐうの音も出ない…。
「まいりました。…綾香にストレスが掛かりそうなら、すぐに消すからな」
「心配し過ぎよ。誰かさんと違って、スプラッターが大好きな私に、ストレス?」
「はいはい、苦手で悪かったよゴメンね。俺の奥さんは、お強いですね~」
舌を出して、せめてもの抵抗を試みる。
それを見た綾香の笑顔は、本当に、本当に綺麗で愛おしかった…それなのに―――
これが何処の誰とも知らぬ、ただのAVであったなら、笑い話で済んでいた…。
ため息をついて、目の前に映し出される、よく知った人間の痴態を眺めている。
あぁ…大丈夫。俺は…冷静だ。冷静のはずだ…。
「綾香…これは、お前なのか」
「……」
「あの糞野郎が嫌がらせで送ってきた、嘘っぱちだよな」
「……」
「お前がこんなこと、するわけないだろ」
俺は冷静に、優しく声をかけているつもりだ。
沈黙が、圧迫感を持って二人の肩に伸し掛かっていく。
長く息を吐いて、…冷たい声が、出た。
「…………何か言えよ」
「浮気なんかしてない。こいつとSEXなんて、してない」
誰が冷静だって―――
「じゃあなんで、変装までしてラブホ行ってんだよ! それにこの動画は、なんなんだ! 自分からキスして、咥えて、受け入れて、腰振ってんじゃねぇか! 相場の10分の1で、どこでも誰とでもやる、ヤリマン糞女は本当でしたってか! 高校の頃、噂を否定してた俺を見て
べらべらと、自分の口から思っても見なかった言葉が、次々と出てくる。
「違う! 違うの響一! ちゃんと話を聞いて!」
「なんの話を聞けばいいんだ。お腹の子供は、俺の子じゃないと聞かされるのか…友也みたいに」
カッ! となった頭が、歯止めも聞かず、言うべきでないことまでも、口にさせてしまう。
「!? この子は本当に私と響一の子よ、信じて響一!」
「………今のお前と、話なんてできねぇよ」
「お願いだから話を聞いて、響一! お願いだからぁ…」
「………」
響一は何も応えてくれず、自分の部屋へ行ってしまった。
私がパニックを起こしながらも、どうすれば話を聞いてくれるのか、信じてくれるのかと必死に考えていると、響一はガーメントケースと大きなバックを持って、部屋から出て来る。
話しかけようとすると、
「母さんには俺が忙しくて帰れないから、俺のいない間の世話も頼むと言っておく。俺も混乱してて冷静じゃない、…落ち着いたら連絡する」
「待って、 響一! お願いだから待ってよぉ!」
私は立ち上がり、慌てて響一の元に行こうとして、つまずいてしまった。
お腹は大丈夫、でも崩れ落ちるように倒れ込んでしまった。
響一は、ハッとして私に駆け寄ろうとしたが、破水したり大事になったりしてないと判断したんだろう、何も言わずに出て行ってしまった。
こんな、こんな簡単に崩れてしまうの―――
自業自得。私が引き起こしたことが原因で、今こうなってるのは明らか。
でも、でも、こんなのってない。こんなのってないよぉ。
私は、涙が流れていることにも気づかずに、お腹を撫で続ける。
響一のあんな顔、初めて見た…。
苦しそうで、つらそうで…どうしていいかわからない、そんな顔を。
ぁぁぁ…そうか今になって…こうなってから初めてわかるんだ…。
後悔するって…こういうことなんだ。
ごめんなさい、ごめんなさい、と響一に、お腹の中の赤ちゃんに、誰に対してかすらわからないまま、謝り続けていた。
*
完全に頭が混乱してる。
デキの悪い罰ゲームで、ドッキリバラエティー番組に参加してた、と言われたほうがはるかにマシだ。
あんな調査書なんか信じるに値しない、いい加減なもの。
綾香の出産間近の大変な時期をわざわざ選んで、不破木が俺達夫婦をおちょくるために送ってきた、でまかせでしかない…。
わざわざ封を開けて、中身を見る必要なんてなかった。
イカれた糞野郎の暇つぶしにつきあってやるなんて、人がよすぎる。
笑い話のネタになるな…それで終わる話だろ。
なのに、なんで綾香は、顔を真っ青にして何も言わない。形のいいふっくらとした
唇が、あんなに震えて―――
詳細に書かれた調査書も、このハメ撮り動画に映っている女は、綾香だと断定している。画質も粗く、髪はウィッグを付けていて、顔は綾香に見えなくもない。
ただ、何度も抱いたあの体を見間違えるほど、俺は
そして、綾香が教え子の一人に、腕を噛まれてついた傷跡。整形しないで残すのは、勲章であり絆だから怒らないであげてって…。同じ位置に似た傷跡まである、他人の空似なんてありえるのか。
綾香のうろたえた姿が…動画と調査書が事実だということを物語っていた。
俺が見ている綾香の動揺した姿は、友也があの日に見た菫さんの姿、そのままだったんじゃないのか…。
なんで綾香が、あんなことを。
もしあの動画の一回限りならば、傷跡ができたあと。確か噛まれたのは、教員になってから数年経ってたはず。そうじゃないなら…。
俺とつき合う前はありえない。高校時代は、そんな余裕も時間もなかった。綾香を妬んだ奴らが、糞みたいなデマをながし、綾香自身もそれに立ち向かうので精一杯だったはず。
つき合ってからは…教育実習に教員採用試験、卒論、卒業後もすぐに教諭として忙しかったはず。お義母さんが亡くなったあとなら、落ち着いて時間もできる…か。
ウソだろっと否定しようとするよりも、綾香が浮気をしたという根拠ばかり頭に沸き上がってくる。不破木のデマだと思い込もうとすればするほど、ハメ撮り動画の女が綾香本人だと、俺自身が理詰めで追い詰めてくる。
『結婚生活の幸福なときも困難なときも、いついかなる時もお互いを愛する誓い。節操・貞操を破ればすぐに破綻するような誓いなら、しない方がいい』
『旦那さんが菫さんを捨てるなら、裏切ったからいらないと言うのなら、喜んで僕が菫さんを幸せにします。一度も間違いを起こすこともなく、そして赦すこともなく品行方正、清廉潔白に生涯を貫いて下さい。ご立派です、その考え尊重しますよ』
『それに、綾香さんと響一さんの愛を、僕は信じています。この程度のことで壊れたとしても、きっとやり直して幸せになることを…信じさせて下さい』
うるせえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!
黙れ黙れ黙れ黙れ
お前が壊しておきながら…(僕が壊したわけじゃありませんよ)
お前が余計なことをしなければ…(綾香さんは応えてくれましたよ)
お前さえいなければ…
(僕がいなくても遅かれ早かれ…わかってて言うなんて、響一さんも意地悪だなぁ)
俺の名前を、気安く呼ぶんじゃねぇーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!
!!!
自分の大声で、目を覚ますなんて…。
ここは…そうか車で高速のって、
バックミラーを窺うと、後部座席には家を出る時に持ってきた、荷物が置いてある。
夢じゃなかったわ…悪夢なんてもんじゃねぇよ、マジで。
いや…悪夢だったわ。あの
母親に綾香のことは連絡しておいた。
詳細は語らなかったが、お願いしますと頼んだら、何も言わずに引き受けてくれた。頭があがんねぇ、ほんとに。
綾香が倒れたあの時、俺はハッとしてすぐにそばに行こうとした。
でも近づけもしなかった。触れることもできたかどうか…。
いいじゃねぇか浮気の一つや二つ、男漁りのビッチだろうが関係ないだろ。
愛してんだろ…器のちいせぇ狭量な男だな。
違う。なんで綾香が、浮気した前提で考えるんだ。
あいつが、浮気や不倫なんてするわけないだろ。
母親を一番大切にして、その母親を
子供が子供なら親も親だと、そう言われないためにどれだけ努力し、隙を見せず、いじめにだって立ち向かった。
ずっとあいつを見てきたのに、お義母さんの次に一番あいつのそばにいたのは『俺』なんだぞ。
あんな動画を信じて、綾香を…愛する妻を信じないでどうすんだ、この
じゃあ、動画で腰振ってた女は…綾香じゃないんだな。
………わからない。
俺は、綾香が浮気をするような人間じゃないと、信じてる。
もし、動画の女が綾香だったとしても、何か事情があるんじゃないか。
………どんな事情だよ。
変装までして、自分から喜んで男とやってる姿に、どんな高尚な理由があるんだよ。 騙されて、レイプされて、何度も脅されながら抱かれてるうちに、薬も使われて、どハマりした姿が、あれですってか?
俺に知られたくなかった。
心配かけたくなかった。
だから言いなりになって、裏切ってラリった淫売が、お前の愛した奥さんだよ! アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!アッハッハッハッハ!―————
誰が笑ってんだ…
おれか
人の愛は、どんな困難も打ち砕き
どんな苦難も、乗り越えることができる
神が与えてくれたもの
そんなもの、どこにあるの
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