第2話 手続きをしていたら

「三嶋君」


 事務室を出たのは、午後前の頃だった。事務書類にサインをして、諸々の手続きをこなした俺は、顔だけ何度も合わせた事務員に礼を言った所だったろうか。


「河嶋さん」

「ちょっと、良い?」

「ハァ」

「時間取らせないから」

「まぁ、いいですけど」

「何か問題あるの?」

「搬入いいんですか。午前便そろそろ来る頃でしょう」

「ああ…いいのよ」


 キッと目を細めた河嶋彩乃は、有無を言わさない勢いで、首を振った。俺は過去の経験から黙って彼女の言葉に従い、廊下を歩く従業員の人に挨拶をしていく。



「で?」

「は?」

「で?」

「ハァ?」

「だから…どうなのよ」

「上田さんにしろ河嶋さんにしろ、分からないですよ」

「本当に契約終わったの?」


 俺は河嶋さんが書いたきた内容に驚いた。彼女がそんな事、気にするとは思っていなかったから。


「ええ、今さっき手続きも終わりました」

「サインしたの?」

「?はい」

「ハァ…まさかとは思ったけどね。本当にするの」

「しますよ」

「ったく」


 何でイライラしているのか、俺にはわからない。工場内の休憩スペースはこの時間、ほぼ全ての人が働いているから閑散としていた。でなければ、苛立ちを隠さない河嶋さんの姿は、多くの従業員を震え上がらせていただろう。

 何年も一緒に働いた俺からしたら慣れたものだが、この光景も見納めだと思うと、言葉にならない感じがあった。


「そろそろ時間、来ちゃいませんか」

「時間って…アンタね。何悠長にしているのよ」

「のんびりしているつもりはないんですが…河嶋さんみたくせっかちじゃないんです」

「のんびりしてるわ、全く。ああ、本当にもう」

「止めてくださいね、それ。何度もトラブってきたのに、最後まで直らないんだなぁ」

「五月蝿い。私は私なの」

「せめて俺の後任の人には、収めて下さい」


 初めて会った時からイラちな人で、これまで散々悩んでいた河嶋さんは、背中を向けて舌打ちを打っていた。

 黙っていれば才女の風格漂うのに、この悪癖のせいで随分と損をしているのを、何度も目撃している。


「上田さんにも八つ当たりしないで下さいよ」

「アンタのお気に入りだものね、沙織は」

「そうやってまた」

「フン」

「三嶋さん」


 話をすればだ。


「あれ上田さん?」

「こんにちは。先輩、ちょっと」

「どう?」

「ビンゴでした」

「あー、もうバカ」

「バカでしたね」


 そして何故か、俺は二人からジト目を向けられている。呆れ顔で睨まれた身からすると、はっきり言って不愉快にすら思えた。


「な、何ですか二人は昨日から」

「何だかなぁ」

「ねぇ」

「あのー」

「本当にいいの?」

「こうなったらどうにでもなれですよ」

「そうね。まぁそうか」


 二人して話し合うが、何故か顔には悲しみが浮かんでいる。心臓が握り締められるような感覚に息苦しさを覚える俺は、無意識に休憩室のドアノブを掴んでいた。


「あ、もう用がないなら帰ります」


 この場に居たくなかった。というよりも、二人を見られなかった。


「ありがとうございました」


 頭を下げてドアをくぐった俺は、近づく気配に腰を抜かしてしまう。


「おおう?!」

「な、なによ!」

「いきなり近づかないで下さい!」

「話があるのよバカ!」

「ヒィ…」

「先輩」

「、っ!…はいはい悪うございました。私が悪いわよ」


 慣れたとさっきは言ったが、強い圧には耐性が無いのだ。本当に恐ろしい河嶋さんの圧が消えて安心していると、上田さんがチョコンと顔を出してくる。


「あ、あの」

「は、はい…」

「あの、今日の、その」

「あ、書類ならもう出しましたが」

「いえ書類ではなくて」

「何か忘れてましたかね?」

「ったく、違うわよ!何でなのよ!」

「ええ…」


 溜息をついて額を押さえる河嶋さんが、我慢できない様子で捲し立ててきた。


「今日の夜、空いているかって聞きたいのこっちは!」

「はぁ、まぁそりゃ空いてますが」

「本当ですか!なら大丈夫ですね」

「えっ、あっ、」


 考えもせずに返事をしてしまったが、上田さんの言葉には意味があるような気がする。困惑する俺は、何故か朗らかな顔つきになっている上田さんの肩を小突く、河嶋さんに目線を向けた。


「分かってないわよ、沙織。夜に誘っている事を」

「あの、それは」

「ええ。だから飲みに行かないか誘ったの。私達三人で、送別会をしない?」



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