第3章「煉獄」
海の王の座は、海の神・カイトに引き継がれた。カイトの他にも海の神はいるが、その中でも最も若く活動的で、これまでにも何度もミナトの穴埋めをしてきたということで、彼が選ばれた。しかし、カイトは当初、王の器ではないと断った。
「俺は、ミナト様を信じているんです!かけがえのない親友ですから。」
カイトは強い眼差しで、両の拳を握り締めて言った。
「カイト殿。だからこそ、私は君に海の国を任せたいのだ。ミナトを信じる君の気持ちが、私は嬉しいよ。」
アマトは、柔らかに微笑んだ。
「じゃあ…やっぱりアマト様もミナト様が犯人じゃないとお考えで…?」
「…しかし私は神々の王として、あのような処分を取らざるを得なかった。例え私が反対しても、皆が決めることだ。私の勝手な判断は出来ない。それに…あの状況があまりにもミナトには不利だった…。」
「分かりました、アマト様。俺はミナト様の代理として、海の王を務めさせて頂きます。」
「ありがとう、カイト殿。」
優しいアマトの微笑みは、どこか影を帯びていた。
ヨミトの居城、月の宮殿。
四つの細長い尖塔が直立した、黒一色の宮殿だった。
紫色に染まった空と、枯れた木々の景色が、不気味だが退廃的な美しさを醸し出していた。
そのテラスで、月明かりを浴びて佇むヨミトの姿があった。
そこへ、一人の黒衣を身に纏った男がやって来た。
「…お前か。」
振り返りもせずに、ヨミトは言った。
「うまくいきましたね。これで邪魔なミナトは消えた。ヨミト様、私はうまくやりましたよね。ヒノトを物陰に誘い込み、ミナトがやったと見せかけて…その後は柱の陰に隠れて、騒ぎに紛れ込む。完璧な作戦でした。」
「そうだな。お前はうまくやってくれたよ。俺の指示通りだ。」
ヨミトは振り返らない。
「次は、何をすればよろしいですか。何でも仰る通りに致します。私はヨミト様の忠実な下僕しもべです。ヨミト様のためなら何だって出来ます。」
男は、神だった。ヨミトに憧れの念を抱いていた彼は、ヨミトを崇拝するようになり、いつの間にか我を失くし、ヨミトの傀儡と化してしまっていた。
「そうだな…。今、ちょうど邪魔者がいる。そいつをまず消そう。」
「誰なのです?」
「お前だ。」
ヨミトは素早く振り返って、左手を男に向かってかざした。すると男の体は一瞬にして灰になり、塵となって消滅した。
「下僕など、悪魔で十分だ。」
「三貴子」とは、アマト・ヨミト・ミナトの三神に敬意を表して呼ぶ言葉である。しかしそれだけではない。この言葉には、もっと重要な意味がある。
太陽の神、月の神、海の神という、世界を守る三神。この三神の力のバランスによって、自然界、生き物の世界の調和が保たれているのだ。一神でも欠ければ、世界のバランスは崩れてしまう。
アマトは勿論、そのことを知っていた。ミナトの後任に決まったカイトでは、幾ら彼が頑張っても、欠けた力のバランスを補うことは出来ないことも知っていた。ミナトは、その存在そのものに意味があったのだ。
全ての状況が、神殺しの犯人はミナトであるということを示していた。アマトは信じられない気持ちと神を殺した者への怒りとで板挟みとなり、苦しんだ結果、出した結論が、神の国からのミナトの追放だった。
世界のバランスが崩れ、いずれ自然災害が起こるかもしれない。人や動物が大勢死ぬかもしれない。しかし、「殺し」はあってはならないことだ。許せるはずがない。尊い命を奪ったのだから。アマトにとって、身を切るほど苦しい決断だった。
当初は、ミナトを人間界に追放するという決定がなされたが、ヨミトの意見によって、ミナトは月の国の地下にある牢獄、「煉獄」に送られることになった。
「煉獄」は殺人等の重罪を犯した人間や、獰猛な悪魔が投獄されている場所である。
「ヨミト!幾ら何でも、それはあまりにも酷い…。」
アマトは反対した。
「何を仰るのです。ミナトは神を殺したのですよ。罪の重さと命の尊さを知らしめるために、死の恐怖と苦しみを同じように味わってもらわなければならないと思いますが。」
「し…しかし…。」
「姉上は甘すぎます。ミナトには厳しい罰を与えなければ、皆も納得しないでしょう。」
「…ヨミト…、お前は、ミナトが犯人だと…そう思っているのか?」
「姉上。弟だからと情けをかけるのは、以ての外です。そのような感情は、時に判断を狂わせてしまうものなのですよ。」
ヨミトの言葉に、アマトはただうなだれるしかなかった。
煉獄。
月の国の地下大空洞の中にそれはあった。
この世の地獄とは、まさにこの場所を示しているといえるだろう。
煉獄の管理者や看守は、「鬼」と呼ばれる種族である。鬼は神の眷属だが、罪人を苦しめる役割を持ち、その性格は荒々しく、姿は頭に一本の角を生やした赤黒い体で、神にも悪魔にも近い存在と言えた。鬼を束ねる煉獄の管理者は
「俺は殺してない!濡れ衣だ!」
牢の鉄格子にしがみついて、ミナトは叫んでいた。
ミナトの入れられた牢屋は狭く、壺と、藁しかなかった。
冷たい湿った地面。牢の中は薄暗く、光の差す窓もなかった。
囚人には一日に二回、粗末な食事と水が与えられる。時には、腐って虫のたかった食べ物を与えられることもあった。王宮での暮らしに慣れきっていたミナトにとっては、苦痛と屈辱を与えられているのと同じであった。
「ここから出せーー!!」
何度も何度も叫んだせいで、喉が渇き、声はかすれていった。
「そんなに出たいのなら出してやろう。」
体格のいい看守の鬼が、牢屋の鍵を外して中に入ってきた。
「お前の血をどっぷりとな。」
鬼はニヤリと笑い、ミナトの腹を力一杯殴った後、膝蹴りを喰らわせた。ミナトは血を吐き、倒れた。
「何を…する…俺は…王だぞ…海の…王…。」
「黙れ。貴様はもう王なんかじゃねえ。ただの囚人だ。」
鬼は、その逞しい赤黒い腕で、ミナトの細い腕を掴み、そのままミナトの体を壁に叩きつけた。
「ううっ…。」
ミナトは気を失った。
「もっと苦しめてやる。それが罪を犯した者への制裁だ。」
鬼は、大きな汚いバケツに入った泥水を、ミナトの顔にぶちまけた。
「ごぼっ…。」
ミナトは意識を取り戻し、何度も咳き込み、泥水を吐いた。
「汚ねえ殺神野郎め!」
鬼はミナトの腹を何度も何度も蹴った。ミナトは全身、泥水やら血にまみれ、服はぼろ布のようになった。
「ここが、海の王だった奴の牢か…。」
外から、鬼たちの声が聞こえてきた。
「神のくせに、殺神を犯したってな。」
「いい機会だ。神を苦しめたことはねえからな。たっぷりといたぶってやる。」
鬼たちの下卑た笑い声が牢獄中に響いた。
そして、鬼たちがミナトの牢にぞろぞろと入ってきた。
ミナトは、鬼たちに取り囲まれて、四方八方から殴られ、蹴られた。
鬼たちの攻撃は続いた。時間もほとんど分からない牢獄で、毎日、ミナトは暴力を受け、半殺しの目に遭いながら、生き長らえていた。
次第に、ミナトは叫ぶこともしなくなり、無口になっていった。ただ目だけがキラキラと輝き、その光が失われることはなかった。
「その目…気に入らんな。」
鬼は、ミナトの目に熱い焼きゴテを押し当てた。
「ぐあああああっ!!」
苦痛のあまり、ミナトは絶叫した。
ミナトの両目は潰れ、ミナトの世界は真っ暗になった。
だが、次第に近付いて来る光の気配に、ミナトは気付いていた。
光の気配は、どんどん大きくなってくる。見張りの鬼の気配はない。
ミナトは、鉄格子に張り付いた。何かが来た。
「ミナト様…。」
女の声がした。聞いたことのない声だった。若い、澄んだ声。
「さあ、私の手を握って…。」
ミナトは言われるまま、手を差し出した。温かい手が、ミナトを包んだ。
光の中に吸い込まれるような感覚がした。光の道を、二人で歩いているかのような…。
大きな光の中に、小さな三人の子供がいた。
三人はそれぞれ、別々の贈り物をもらった。
一人は花を、一人は生き物を、一人は石を。
それらは、三人に与えられた心の象徴だった。
一人は「慈悲」、一人は「自由」、一人は「勇気」。
三人はそれぞれの贈り物を抱えて、光の向こうへと歩き出した。
小さな後ろ姿はやがて一つになり、光に溶けた…
気が付くと、ミナトは川のほとりにいた。
世界は真っ暗闇で、月明かりだけが大地を照らしていた。
その中で、川は静かに流れ、水面が銀に光って綺麗だった。
「俺は…。」
ミナトは両目に触れた。看守に目を潰されたはずだったのに、すっかり治っていた。体中の怪我も。服も綺麗になっていた。
「私が治しました。」
隣には、美しい少女が座っていた。腰まで伸びた長い輝くばかりの美しい金色の髪。だが、変わった姿をしていた。背中には金色の羽が生えており、耳の先端は尖っていて、黒っぽい布で覆われている足の先には、鳥の足にあるような鋭い大きな爪があった。
「お前が…?何で俺を助けたんだ?」
「ミナト様を守るのが、私の役目だからです。」
少女は、宝石のような緑色の目でじっとミナトを見つめた。
「どういうことだ…?それに、何で俺のことを知ってるんだ?」
「ふふっ。」
少女は微笑んだ。ミナトは少し困惑した。
「お前、名前は?」
「エスリンです。」
「ふうん…。聞いたこともないなあ…。」
記憶を探ってみても、ミナトには、エスリンなどという人物に心当たりはなかった。
「ミナト様、これを…。」
エスリンは、ミナトに長い棒状の布包みを手渡した。
「何だこれ?」
布の包みを取り払うと、中から鞘に納められた一本の長剣が出てきた。
「これって…俺の剣じゃんか!何でお前が!?」
「…エスリンと呼んで下さい。そうです。混乱の騒ぎの中、これだけは何とか持ち出せたのです。」
「混乱って?」
「それは後で話します。とにかく、ここにいては危険なので、どこか人のいる場所へ移動しましょう。」
ミナトたちは、とりあえず近くの町の宿に入った。
ここは、海の国に属しているが、月の国と海の国の中間にある町で、そのため魔物が町に入り込むことがしばしばあった。魔物から町を守るためか、町全体を頑丈な石壁が取り囲んでおり、迷路のような複雑な町の造りになっていた。
「で、どういうことなのか説明してくれよ。ここが海の国だなんて信じられねえ。ずっと真っ暗だし。」
小さな宿の一室で、ミナトとエスリンが向かい合って座っていた。
「ここだけじゃありません。今、世界は暗闇に包まれているのです。アマト様が封印されたために。」
「えっ!?どーゆーことだよ!!」
「ヨミト様が、アマト様を
「まさか…!」
「私は見ました。アマト様がその数日前に、私に、ミナト様を守るよう命じられて、部屋にこもりきりになってしまったので、心配でアマト様の様子を窺っていたのです。するとそこへ、ヨミト様が現れて、アマト様を…。」
「お前は一体、何なんだよ!何でそんなこと!第一、兄上がそんなことをするはずねえ!」
ミナトは突然立ち上がって叫んだ。
「まだ分からないの?私はエスリン。アマト様に仕えていた使鳥です。」
「ええっ!?」
ミナトはぎょっとしたように目を見開いた。
「…私だって信じられませんでした。でも目の前で、ヨミト様がアマト様を封印する所を見てしまったのです…。あのヨミト様は、いつものヨミト様とは全く別人のようでした。でもヨミト様に間違いない…。アマト様の持ち物である鏡も、ヨミト様に奪われてしまいました。私は何とか、ミナト様の剣だけは持ち出すことが出来たのですが…。」
「んなわけねえ…。何で…何で兄上が…。」
ミナトは、複雑な表情で剣を見つめた。
「…煉獄にミナト様を送り込んだのは、ヨミト様です。アマト様は反対したのですが…。」
それを聞くと、ミナトは青ざめた。
「…俺は信じねえ…信じたくない…。」
「ヨミト様は、アマト様を封印した後、アマト様に代わって世界の王となりました。アマト様を封印したことは、誰も知りません。皆、アマト様が自ら天岩戸にお隠れになったと思っています。ミナト様のあの一件にショックを受けたためだと…。」
「俺は何もしてない!ヒノトは、俺が会いに行ったとき、既にやられてたんだ。ヒノトは俺がやったと思ってたみたいだったけど…。でも俺は殺してない!いくらあいつが嫌いでも、殺しなんてするもんか!」
「ええ。分かっています。ミナト様がそんなことをするはずはないと、アマト様も仰ってました。私もミナト様を信じています。」
「けど、もうそんなことはどうだっていい!どうしたら姉上を助けられるんだ!?太陽が出てないから、姉上に何かあったってことは俺にも分かる。こんなときに皆何やってんだ?お前も、何でそのことを皆に言わないんだ!?」
「私が言ったところで誰が信じると思います?それに、私の正体をヨミト様に知られたら、今度は私を殺そうとするでしょう。もしそうなれば、アマト様の復活も叶わなくなる…。」
「姉上を助ける方法があんのか!?」
「鏡が…アマト様の鏡があれば、天岩戸は開くはず。でも、その鏡はヨミト様の手に…。神々も天岩戸を開く術を知りません。」
「じゃあ、どうしようもねーってのか!」
ミナトは頭を抱えた。
「どうしようもないことはありません。だって、ミナト様がこうして無事でいるのですから、いつかは…。」
エスリンは微笑んだ。
「…兄上を…ぶちのめせばいいってのか…?」
下を向いたまま、ミナトは言った。
「ヨミト様が何を考えているかは分かりませんが、元のヨミト様に戻ってもらうしかないですね。」
「俺にはさっぱり分かんねえ…。俺がこうなっちまったのも、世界がこんなになったのも…兄上がしたことなのか…?俺は聞きてー!兄上に会って直接話したい。どういうことなのかを…。」
「それは自殺行為だと思います。」
「何でだよ!」
「ミナト様を煉獄に送ったのですよ。会った所で、良い事が起こるとは思えません。」
「それじゃあ俺はどうしたらいいんだ!このままじっとしてることなんか出来ねー!ほんとのことを知りたいんだ!!」
「まずは私を信じて下さい!」
エスリンは、強い眼差しと口調で言った。その眼光にミナトは圧倒された。
「…でもなあ…。」
ミナトは、エスリンをまじまじと見た。見た目は可憐な少女のエスリンだが、きりっとした気の強そうな大きな目が印象的だ。
「お前があの使鳥だなんてな…。」
「私はミナト様のことなら何でも知ってます。時々、アマト様から監視役を任されてましたから。」
にっこりとエスリンは笑った。ミナトは、何となく背筋に冷たいものを感じた。
「…それでミナト様。その剣ですが…。」
「ああ。これが何なんだ?」
ミナトは、背負っていた剣を取り出した。
「それは、絶対に手放してはなりません。」
厳しい口調と表情でエスリンは言った。
「その剣はカオス様からミナト様へ授けられた宝。ミナト様だけのものなのですから。」
「…でももう、王じゃなくなった俺には使えないものだろ?」
「確かに、王としての力は使えません。でもその剣は、ミナト様の心と共鳴して、悪を滅ぼすことの出来る剣なのです。」
「俺の心と…共鳴?」
ミナトは首を傾げた。
「そうです。ミナト様の心の力が、剣に伝わって悪を滅ぼす力となるのです。」
「ふーん。じゃあ、つまりこの剣は武器になるってことなのか?」
「悪を討ち滅ぼす剣です。ミナト様だけに扱うことの出来る、聖なる武器です。」
「へえ…。知らなかった。今まで、この剣を武器として使うなんて考えたこともなかったな。…ほんとに使えんのかな?」
銀色の美しい剣をミナトはじっと見つめた。
「ただし、今のミナト様ではこの剣を上手く扱えないでしょうね。」
「何!?どーゆーことだよ!」
ミナトはエスリンを睨んだ。
「とりあえず、今はここから離れることが先です。煉獄を脱獄したことはもう、ヨミト様にも知られているでしょう。」
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