3. 二人の隠れ家
天井工事から数日後、アヤメは明るくなった岩屋の壁を見て驚いた。
壁中が絵と文字で覆われていたのだ。軽石で書き殴られたそれらの壁画は、モコが思いついたゲームのシナリオを手当たり次第に記したものだった。
「すごいね、こんなに考えられるなんて才能よ!」
「まさか、ただの暇つぶしだよ」
モコは謙遜したが、アヤメはその独創性に目を輝かせた。
その頃から、岩屋での短い
ある日、他愛もない話の流れから、アヤメはモデルになりたいという夢を打ち明けた。
「街で声をかけられて、雑誌に載ったのがきっかけ。こんなに小さくね」アヤメは米粒でもつまむような手つきをして笑った。「でもすごく嬉しかった。こんな田舎町じゃ結構珍しいでしょ?」
ところが、その珍しいことが後に三度も続いた。次第にモデルという職業に興味を持ち、もともと好きだったダンスやヨガを本格的に始めると、彼女のプロポーションは見る間に磨かれた。ピザ屋でのバイトも運動と留学の資金作りを兼ねたものだという。
モコにはまるで異世界の話だった。住む次元が違いすぎて、自分を惨めに思うのすら忘れていた。
「アヤメさん、すごいよ。……僕、夢を持ったことなんて一度もないよ」
一方のモコは、嫌なことからは徹底的に逃げ回ってきた。その最たるものは長年の酷い偏食で、体は弱く肥満気味になり、友達もできなかった。運動も勉強も大嫌いだった。強い劣等感はますます孤立を招き、現実から逃れるようにひたすらゲームに明け暮れた。
とうとう同級生が揃って高校へ進んだこの春、モコは一人取り残されてしまった。
猛烈な不安と寂しさが日に日に募り、家にさえ居場所がない気がして飛び出した。
「でもいま頑張ってるじゃん。きっともうすぐ出られるよ」
「だといいけど……」
実際、モコの体にはずいぶん変化が現れていた。
「夏休みが終わったら私のシフトも変わっちゃうし、それまでにここを出ること」
アヤメは一方的に期限を決めて、こう付け加えた。
「ちなみに私の誕生日は8月31日。いい結果を頂戴ね」
「わ、わかった。約束する!」
モコは有頂天になった。誰かと約束を交わしたのは生まれて初めてだった。
夏休みは半分が過ぎていた。
次の日からモコはピザを一日二枚に減らし、腕立てとスクワットを始めた。天井から夏の日差しが容赦無く照りつける。夕暮れ時、汗まみれの体を湧き水に浸すと、今までに味わったことのない達成感が込み上げた。
山椒魚の体は日に日に絞られた。アヤメの的確なアドバイスも強力な後押しとなった。もはや目の前の脚立を使えば、今すぐ外に出られるだろう。だがモコは、自分の
「私が降りられないじゃない」
穴の上からアヤメは文句を言ったが、モコは力強く答えた。
「ピザはそこから落っことしてくれればいいよ。あと一週間、一人で集中したいんだ」
「ちぇ、せっかくの休憩場所だったのに……」
アヤメは口ではそう言ったが、顔には「頑張れ、期待している」と書いてあった。
脚立を外した理由はもうひとつある。アヤメへのサプライズだ。
実は、モコは既に自分の体があの入り口を通ることを確認していた。
岩屋から数か月ぶりに外へ出た日のことは忘れられない。夕焼けが入道雲を赤く染め、ヒグラシが物寂しく鳴いていた。深く吸い込んだぬるい風は、ほのかな竹の匂いがしてどこか懐かしかった。足先を川に浸したままじっと座り込んでいると、いつしか無数のトンボの群れに包まれてしまった。
今すぐこのまま街まで降りて家に帰ろうか。ベッドの周りにはゲームに漫画——好きなものにだけ囲まれた居心地のいい部屋が、懐かしく思い出された。だが、なぜだかそれは古い写真のように色褪せて思えた。
モコは立ち上がると、川辺に咲いている花を探して、少しずつ岩屋の奥に植え込んだ。
数日後、岩屋の中は花で溢れかえった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます