3. 二人の隠れ家

 天井工事から数日後、アヤメは明るくなった岩屋の壁を見て驚いた。

 壁中が絵と文字で覆われていたのだ。軽石で書き殴られたそれらの壁画は、モコが思いついたゲームのシナリオを手当たり次第に記したものだった。

「すごいね、こんなに考えられるなんて才能よ!」

「まさか、ただの暇つぶしだよ」

 モコは謙遜したが、アヤメはその独創性に目を輝かせた。


 その頃から、岩屋での短い団欒だんらんが二人の日課になっていた。二人は同じ十五歳だった。もし普通のクラスメイトだったら、お互い話しもしなかっただろう。だがこの隠れ家の中では、不思議と特別な関係になれた。

 ある日、他愛もない話の流れから、アヤメはモデルになりたいという夢を打ち明けた。

「街で声をかけられて、雑誌に載ったのがきっかけ。こんなに小さくね」アヤメは米粒でもつまむような手つきをして笑った。「でもすごく嬉しかった。こんな田舎町じゃ結構珍しいでしょ?」

 ところが、その珍しいことが後に三度も続いた。次第にモデルという職業に興味を持ち、もともと好きだったダンスやヨガを本格的に始めると、彼女のプロポーションは見る間に磨かれた。ピザ屋でのバイトも運動と留学の資金作りを兼ねたものだという。

 モコにはまるで異世界の話だった。住む次元が違いすぎて、自分を惨めに思うのすら忘れていた。

「アヤメさん、すごいよ。……僕、夢を持ったことなんて一度もないよ」

 一方のモコは、嫌なことからは徹底的に逃げ回ってきた。その最たるものは長年の酷い偏食で、体は弱く肥満気味になり、友達もできなかった。運動も勉強も大嫌いだった。強い劣等感はますます孤立を招き、現実から逃れるようにひたすらゲームに明け暮れた。

 とうとう同級生が揃って高校へ進んだこの春、モコは一人取り残されてしまった。

 猛烈な不安と寂しさが日に日に募り、家にさえ居場所がない気がして飛び出した。彷徨さまよった挙句に潜り込んだのがこの岩屋だ。親の支払いの携帯決済でピザを頼み続けるうち、いつしか二度と出られない体になっていた——。


「でもいま頑張ってるじゃん。きっともうすぐ出られるよ」

「だといいけど……」

 実際、モコの体にはずいぶん変化が現れていた。

「夏休みが終わったら私のシフトも変わっちゃうし、それまでにここを出ること」

 アヤメは一方的に期限を決めて、こう付け加えた。

「ちなみに私の誕生日は8月31日。いい結果を頂戴ね」

「わ、わかった。約束する!」

 モコは有頂天になった。誰かと約束を交わしたのは生まれて初めてだった。

 夏休みは半分が過ぎていた。


 次の日からモコはピザを一日二枚に減らし、腕立てとスクワットを始めた。天井から夏の日差しが容赦無く照りつける。夕暮れ時、汗まみれの体を湧き水に浸すと、今までに味わったことのない達成感が込み上げた。

 山椒魚の体は日に日に絞られた。アヤメの的確なアドバイスも強力な後押しとなった。もはや目の前の脚立を使えば、今すぐ外に出られるだろう。だがモコは、自分のくぐったあの狭い入り口を通って出ると決めていた。それで、脚立は岩屋の隅に片付けてしまった。

「私が降りられないじゃない」

 穴の上からアヤメは文句を言ったが、モコは力強く答えた。

「ピザはそこから落っことしてくれればいいよ。あと一週間、一人で集中したいんだ」

「ちぇ、せっかくの休憩場所だったのに……」

 アヤメは口ではそう言ったが、顔には「頑張れ、期待している」と書いてあった。

 脚立を外した理由はもうひとつある。アヤメへのサプライズだ。

 実は、モコは既に自分の体があの入り口を通ることを確認していた。

 岩屋から数か月ぶりに外へ出た日のことは忘れられない。夕焼けが入道雲を赤く染め、ヒグラシが物寂しく鳴いていた。深く吸い込んだぬるい風は、ほのかな竹の匂いがしてどこか懐かしかった。足先を川に浸したままじっと座り込んでいると、いつしか無数のトンボの群れに包まれてしまった。

 今すぐこのまま街まで降りて家に帰ろうか。ベッドの周りにはゲームに漫画——好きなものにだけ囲まれた居心地のいい部屋が、懐かしく思い出された。だが、なぜだかそれは古い写真のように色褪せて思えた。

 モコは立ち上がると、川辺に咲いている花を探して、少しずつ岩屋の奥に植え込んだ。

 数日後、岩屋の中は花で溢れかえった。

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