4. ハッピーバースデー・アヤメ

 8月最後の日。

 モコは壁の落書きを全て洗い落とし、手にした軽石で「HAPPY BIRTHDAY AYAME」と大きく書いた。それからキャンドルを立てたバースデーケーキに、可愛らしいアヤメの似顔絵、その隣に怪獣のような山椒魚を描き添えると、急いで岩屋を抜け出した。

 深い草むらに身を沈め、モコは自分の計画したサプライズにほくそ笑んだ。やがてアヤメがやってくる。岩屋へ入るともぬけの殻だ。呆然と壁のメッセージに見とれているところへ、モコが狭い入り口をくぐって登場する。もう自由に出入りできるのだと!

 そのとき川下に人影が見えた。モコは胸の高鳴りを鎮めるように、草の中へ突っ伏した。驚くアヤメを想像して、頰が緩むのを止められなかった。

 少女は岩屋の前で何やら中に声をかけ、返事がないのに首を傾げると、かがんで穴蔵へと入っていった。ユニフォームの背中に、ピザを頬張るアンナちゃんの笑顔が見えた。

 モコはすぐに彼女に続き、短いトンネルを抜けて叫んだ。

「アヤメさん、ハッピーバースデ……えっ!?」

 振り返った女性はアヤメではない、全くの別人だった。

「ぎゃあああ!」

 彼女の絶叫に、山の鳥たちが一斉に飛び立った。


「ああ驚いた。あたし食われちまうのかと思ったよ」

 岩屋の二人は間も無く落ち着きを取り戻した。

「ごめんなさい、びっくりさせて。……もしかして、カスミさん?」

「お、なんでわかる?」

 アヤメのバイト仲間の話はときどき聞いていた。中でも初日から面倒を見てくれた大学生のカスミさんは、最も慕う先輩だという。

「そうか、あんたの話も聞いてるよ、モコ。想像以上に怪獣だったけどね」

 そういってカスミはワハハと笑った。

「アヤメさん、今日もしかして彼氏とデート……?」

「ま、そういうこと」

 こうなる気がしなかったわけではない。今まで直接聞く勇気はなかったが、あんなに可愛いのに彼氏がいないはずはないし、だとしたら誕生日をこんなところで過ごすわけもない。

「うちの厨房がしつこく言い寄ったのさ。女ってのは押しに弱いからね」

「厨房って、ピザ焼いてる人?」

「ああ、フグリっていうんだ。髪の長いチャラチャラした男でね。ここだけの話、あたしのことも口説いてきたロクデナシさ」

 モコの気持ちは複雑だった。あのピザは、アヤメがモコのために厨房に特注してくれていたものだ。しかし、まさか焼いているのが彼氏とまでは知らなかった。

「怪獣くん、そんなに気を落とすなよ。今日のはいつもの特製じゃないけど、たまにゃいいだろ?」


 カスミはピザを置いて帰っていった。特性ピザを食べ慣れた今となっては、そのの香りがハッキリわかった。

 だが、却ってこれで良かったのかもしれないとモコは思った。

 今日という日を心待ちにしていた自分がバカみたいだった。生まれて初めての約束は果たされず、結局僕は一人ぼっちだ。このままずっとこの穴蔵で山椒魚でいるのがお似合いだ。

 ピザの箱にかけた手に、ポタリと雫が落ちてきた。

 ふと見上げると、そこには小さなアヤメの顔が——いや、それはモコの見た幻だった。

 穴の上には、ただ暗い雲が垂れ込めていた。雫がポツポツとモコの顔を打ったかと思うと、たちまちむせぶほどの激しい雨が降りつけた。

 モコはぐっしょりと濡れたピザの箱を開けることなく川に流した。そして自分自身もまた、ずぶ濡れになりながら岩屋を這い出ていった。

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