第6話 屋根の上からこんばんは

 そうしてくぐって足を踏み締めたとき、私はすぐに図書館の閲覧室ではない場所にやってきたことが分かった。


 なぜかって? ——だって、足元は緩やかな斜面で、なおかつ人が歩くようにはできていない銅板の緑青瓦がずらっと波打っていたからだ。少し視線を周囲に泳がせれば、近くにはいくつもの尖塔や貴族学校よりもはるかに広く高い建物、遠くには地平線まで広がる街並みがある。


 夜空の下、私はどこかの広い広い屋根の上に立ち、目の前にはクリュニーと塔のような建物の窓辺がある。豪奢な金細工の窓枠は見事なもので、大貴族の邸宅でだってそうはお目にかかれそうにない。そんな美術品というべき代物が、窓という窓に施されているのだ。


 そして、窓の向こうには、下がある。賑やかでシックな音楽は、なぜか私は聞き覚えがあった。耳にするだけで体が動きそうになる、ダンスのための管弦楽。


(踊れないのに、踊りたくなるなんておかしな話だわ。なのに、私はこの曲が踊りのための音楽だって知っている。聞いたことないはずなのに)


 であれば、目の前の塔の階下で行われているのは間違いない、舞踏会だ。


「クリュニーさん、ここは?」

「我がイスウィン王国が誇る王城、その一番広い大広間……の屋根の上さ。そこの窓から下を見てごらん。大丈夫、下から俺たちの姿は見えない。ああ、落ちないよう気をつけて」


 クリュニーはさも当たり前のように振る舞っているが——精霊ジーニーの力で、私とクリュニーは図書館の閲覧室から王城の屋根の上へと瞬間移動したようだった。そんな魔法みたいなこと、と思いつつも、実際に起きてしまったことだから信じるほかない。


 それに、私は階下の音楽に惹かれていた。そろりと窓に手を当てて、階下を覗き見る。


 黒の燕尾服の紳士と、白や赤のドレスの淑女が、十何組も優雅にダンスを踊っている。上からでは顔は見えず、それぞれの髪の色くらいしか分からないが、きっとやんごとない家柄の貴族たちばかりなのだろう。技術の上手下手はあっても、皆華麗に踊っているように見せることには長けている。それに、失敗したところで彼ら彼女らは笑い合って、楽しげに話に花を咲かせることだろう。


「舞踏会っていうのは名ばかりで、実際はほとんどの参加者は談笑して過ごすんだ。踊ってばかりじゃ疲れるからね、もちろん目当ての女性にダンスを申し込もうって輩もいるにはいるけど」


 すでに、私はクリュニーの言葉をほとんど聞いていなかった。じっと階下の踊りを眺めていると、ワルツが終わり、速いテンポのフォルラーヌが始まる。踊る男女は控えていた別の男女と入れ替わって大広間の中央舞台から退き、壁際のソファに座った。


 階下の重なる弦の音が私の鼓膜を打つたびに、私の頭の中に知らない記憶が蘇る。『踊り』となればあの嫌な感情がとめどなく噴出してくる……はずなのに、今、私の心を満たしているのは、ただひたすらな多幸感と体が勝手に動き出しそうな烈火のごとき情熱だ。


 足が動く。つま先が床を飛び、靴底が大地を踏み締める。指先までが流麗に舞い、無数の観客の視線を釘付けにする。


 そんな感覚が、私の中にどうっと流れ込んできた。私はそれが見知らぬ『記憶』からのものであり、『踊り』そのものなのだと明確に認識した。


 まるで、私が自ら『踊り』を求めているようだ。『記憶』が『踊り』と繋がって、憎々しいドロドロの感情を吹き飛ばし、憧憬は振り払われ、求めるものをこの手で掴み取りに行こうと、情熱が踊れと私へ命じている。


 そこで私は、我に返った。


(その情熱は、何のためにあるの? 『記憶』の『踊り』は、あの醜い激情を生んだはずのものが私の体に深く刻まれているのに、今湧き上がってくる感情はまったく違うものよ。「踊りたい」、そういうものよ? 階下の舞踏会の人々のように、心の底から楽しんで踊って、踊りを極めた先へ行こうとするものよ? どうして、もう、?)


 それは確信のようなもので、私ははっきりと、「自分は踊れるのだ」と知っていた。


 しかも、その『踊り』は、極めていく類のものだ。楽しさの先に熟達の道を選び、情熱と執念を持って突き進むものだ。


 私の中の『記憶』は、それを「主役プリマになるために」と思っていたらしい。


主役プリマ、踊りの主役? 舞踏会の踊りの主役は主催者だけ、じゃあ、私が踊りたいのは舞踏会で、ではないわ)


 ならば、平民の見せ物のような、酒場の小さい舞台で踊られるような踊り子たちの踊りを私は求めているのだろうか。


 いいや、違う。私の『踊り』は、芸術だった。芸術的な踊りを体現するために、ずっとその道を邁進してきた——そう『記憶』は語る。もう『記憶』はすっかり風化して、砂塵の中に消えていっている。私の中に最後に残った『記憶』と『踊り』は、私を脅かすものではなく、もはや私の血肉になっていったかのようだった。


 世界がひっくり返ったような私の変化の衝撃は、現実にはさして時間もかかっていなかった。


 クリュニーが心配そうに、私の顔を見下ろしていた。


 たった今起きた私の中での出来事を話したって、誰も理解してくれないだろう。私はこの胸に刻まれた感情と目的を表現するためにはどうすればいいか、主役プリマとして芸術的な踊りをこの世に生み出すためには何をすればいいか必死になって考えて、その結論の一端をつぶやいた。


「私の『踊り』は舞踏会の踊り階下のこれじゃない。もっと美しくて、もっと感動に値するもの。それを表すためには」


 もうすでに、私の中でやるべきことは決まっていた。


「戻りましょう、クリュニーさん。ありがとうございます」

「よし。君のためになったならよかった」


 幸いにも、クリュニーはそれ以上、何も聞いてこなかった。私が大広間の屋根の上で何を掴んだのか、どんな変化を得たのかは、まだ誰にも秘密だ。

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