第5話 精霊使いを待つ時間
すっかり明かりが灯った女子寮から抜け出し、暗がりの小道を歩いて図書館へ。慣れた道だから怖くはないが、閲覧時間はもうすぐ終わってしまう。大丈夫だろうか。
私はいつもより薄暗い閲覧室の扉を開き、木製の分厚いカウンターの中にいるカーン先生へ声をかけた。
「あの、カーン先生……すみません、クリュニーさんに呼ばれて」
大型ランプを前にしたカーン先生は、私を見ると手にしていた仕事を切り上げて、腰を上げる。
「ふう、クリュニーに付き合うのも骨が折れるだろう。気にしなくていい、そこで待っていなさい。お茶はどうだね?」
「少しだけ、いただければ」
「了解」
カーン先生は背後に隠されている暗色のカーテンを開いて、司書室へと入っていった。普段カーン先生が休憩したり、常連客の生徒とお茶会を開いていると言われる小部屋だ。
そこから、カーン先生は陶器のカップをソーサー付きで一つ、持ってきた。ちゃんと蓋と細いスプーンまであって、角砂糖二つと指先ほどのミルクポットも載っている。図書館で水けのあるものを、と私はちょっといけないことをしている気分になったが、カーン先生はこう言った。
「ここでは本を読んで悩んで頭を使うから、どうしても甘いものやお茶が欲しくなるんだよ。勉強で疲れ切った生徒を見かけたら、司書室でお茶会に誘ったりね。カウンターの上ならお茶くらいは目こぼしするから、心配しなくていい」
なるほど、と私はようやく納得して、木製の分厚いカウンターの上にソーサーを置き、お茶をいただくことにした。蓋を開けると、蜜がたっぷりの花のような香りが広がり、並々と注がれたストレートティーの水面が揺蕩う。
私はまず、一口だけ飲んでみた。ちょっとだけ苦味があるものの、すっきりとした味わいだ。お茶会のお菓子の甘みを流し、どんどん食べさせてしまう高級な紅茶の魅力が詰まっている。
そこへ、角砂糖を二つ、それからミルクポットの牛乳をカップへそろりと入れて、細いスプーンを前後に揺らす。茶透明な水面はみるみるうちに濁り、すっかり牛乳と角砂糖は混ざってしまった。
甘く、まろやかなミルクティーは、私の乾いた口の中と喉を潤す。どうやら緊張していたようで、このとき初めて私は、胸中のぼんやりとした不安を自覚した。
(舞踏会に行くことが不安? それとも、クリュニーさんが信用できない? 踊りを見ることも嫌なの? ……自分でも、全然分からないわ。いいえ、漠然としてる不安なんて何だか座りが悪いし、いい機会だから、あの『記憶』と『激情』に向き合わなきゃいけないわ!)
私は、そっとカップをソーサーに置いて、穏やかな水面を見つめていた。
考えごとは得意だ。でも、自分の気持ちに折り合いをつけることは、あんまりしたことがない。特に、踊りに関する『記憶』と『激情』とは、ずっと喧嘩してばかりだった。
とはいえ、何かが突然閃いたり、妙案が浮かぶわけではないので、私はぼうっとしつつ思考を巡らせる。そんな私が黙っていても、カーン先生は咎めることなく、カウンター内の椅子に戻って腕を組み、天井を見上げながらひとりでに語りはじめた。
この場にいる私とカーン先生の共通の話題といえばそう——クリュニーのことだ。
カーン先生はクリュニーについてよく知っているらしく、やや擁護気味に——多分、普段は何かをしでかしてばかりなのではないだろうか——顔のしわ深く苦笑しながら語る。
「クリュニーは、強引だが悪い人間ではないよ。あれでもすでに王城へ出仕している宮仕えの身だ、常識もマナーも責任感もある真っ当な男だから、君を騙したり落ち込ませたりはしないだろう。そこは保証しておこう」
——若くして王城に出仕するほどの人物に対して保証することなのに、「ろくでなしではない」ことしか分からないのはどうなのだろうか。そう思ったが、私は黙っておいた。私がクリュニーについて、この貴族学校の生徒であることと
「
カーン先生の話は、私が半分くらいは知っていて、半分くらいは知らなかったことだ。
イスウィン王国では文字が発明されるより昔から、
ただ、今となってはおとぎ話の要素が強く、現代でも精霊や
つまりは、クリュニーはこれから先
想像もつかない旅路に思いを馳せて、私はクリュニーの背負っているものを少し知った気がした。
「そう、なんですか……大変な責務があるんですね」
「ああ。持って生まれた才能ゆえとはいえ、今となっては精霊に捧げる舞の踊り手がいない
精霊に捧げる舞、と聞いて、私ははたと思い出した。
そういえば、昼間にクリュニーが「精霊のための舞」について何か言っていた。精霊と、よりによって私の苦手な『踊り』に関係があるなんて。
それについて、私はカーン先生に尋ねようとしかけたが、閲覧室の扉が突然開いたことで中断した。
待ち人来たり、フード付きコートを目深に被ったクリュニーが、フードと水色がかった金髪を掻き上げながら閲覧室へ入ってきたのだ。
「お待たせしました、遅くなってすまない」
やってきたクリュニーと入れ替わりで、カーン先生は木製の分厚いカウンターから出てきた。
「さて、私は少し席を外す。ここの鍵は閉めておくからな」
「ありがとう、カーン先生! よっ、気遣い上手!」
「図書館では静かにしなさい」
そう言いつつも、微笑みながらカーン先生は閲覧室から出ていった。カタンと『開室中』の札が裏返される音がして、足音は遠ざかっていく。
(あれ?)
そもそも舞踏会に行く、という話だったが、閲覧室は閉じられてしまった。
(どういうこと?)
おそらくカーン先生はクリュニーが何をするか分かっているから閲覧室から出ていったわけで、今からここで何が始まるか知らないのは私だけということだ。
私が不安げな視線を向けたにもかかわらず、クリュニーはまったく見ていなかった。なぜなら、空中にくるくると右手の指先で円を描き、
「
クリュニーの声に応じるように、指先で描かれた円の中から、ぷるんと赤い球体が雫のように落ちてきた。
赤い半透明の精霊ジーニーは、少し身震いすると、まるで花弁のような八枚の羽根を丸い体の周りに浮かべた。よく見るとそれはぷるぷるとしたもので、本体と同じ色をしている。
しかし、空中に浮かんでいた精霊ジーニーはそのままクリュニーの顔に勢いよくぶつかり、勝手に跳ね返ってまたクリュニーの胸元にぶつかる、を繰り返していた。精霊ジーニーなりのスキンシップだろうか、それにしては精霊ジーナと違って過激だ。色が青と赤だから対照的なのかもしれない。
その精霊ジーニーは、ふよふよと私のほうへやってこようとしていた。同じようなスキンシップをされる、と私は咄嗟に身構えていたが、その前に精霊ジーニーはクリュニーの腕に捕まって、本来の仕事に使役されたのだった。
「ではさっそく。
精霊ジーニーはクリュニーにポイっと前へ投げられた瞬間、本棚ほどの大きさに膨らんだ。その腹……腹なのか胴体なのか、真ん中にクリュニーが右手を突っ込み、くるりと回すと波紋のように空間ができ、人一人を余裕で飲み込めそうなほのかな赤い光に包まれた面が生まれる。
精霊ジーニーの面の向こう側は、閲覧室の壁があるはずなのに、見えない。そこへ、クリュニーが呆然としている私の手を掴み、引っ張っていく。
「行こう。お手を拝借」
「は、はい」
されるがままに、私はクリュニーの後をついていく。精霊ジーニーの腹であろうほのかな赤い光の面に、二人で突入した。
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