第4話 意外とショックを受けていた私

 食堂のランチを食べたい気分ではなかった私は、学校内にいくつもある遊歩道、そのうちの一つに向かった。女子寮と校舎を繋ぐ道は、帰宅時間帯でもないかぎり人は少なく、ましてや少し外れた林の散策道は誰も来ない。


 私は、どこかのアーティストが作ったという背もたれの高いベンチに座った。石膏細工のベンチは、三人くらい座れる幅がある。端には分厚い肘置きもあって、意外と居心地はよかった。


 私は柔らかなカーブを形作った背もたれに背中を預け、力を抜く。時折鳥の声が消えるほかは、実に静かなものだ。空は快晴、冬を間近に控えながらもポカポカ陽気だ。


 そんな素晴らしい環境にも関わらず、私は大きなため息を吐く。


 ついさっき聞かされた、始まる前に終わった婚約、ブレッツィ伯爵家子息シルベリオ、父のカテナ子爵が婚約を辞退してエミリアナの家に婚約を譲った——そんな一連の話を思い返すと、情けない気持ちになってきたのだ。


(私が、貴族令嬢らしくなくて、踊れないから……お父様もこれは婚約なんかできない、って思ったのよね。階段で突き飛ばしたことはともかく、エミリアナは悪くないじゃない。私がお父様の期待に添えなかった、ただそれだけよ)


 ただ、たとえそれが事実だとしても、すんなり受け入れられるとは限らないのだ。私はしっかりと落ち込んでいて、自分の不甲斐なさに嫌気が差していた。


 結婚は貴族の義務だ。それを果たせない貴族令嬢なんて、何の価値があるだろう。そんなふうに世間は見るだろうし、私の味方をしてくれる母以外はきっと私へ失望しているに違いない。


 そうやって暗い暗い世界に落ち込んでいく私へ、ベンチの裏から朗らかな声がかかった。


「何しているんだい、アリアン」


 ごく最近聞き覚えのある青年の声に、私はすぐに応答する。


「それはこちらのセリフです、クリュニーさん。また誰かから逃げているんですか?」

「そうね、うん、そうなるね、遺憾ながら」


 逃亡中との指摘に、クリュニーは否定しなかった。図書館でのことと言い、一体全体何から逃げているのかは分からないが、この青年も大概何かをやらかしているに違いない。


「浮かない様子だけど、何かあった? いや、俺が聞いていい話なら聞くけど」


 私の様子を見かねてか、クリュニーに気遣いをさせてしまった。のそりとやってきてベンチに座るクリュニーは、まんまるい青色半透明な精霊ジーナを抱きしめていた。


 精霊ジーナは私へ細長い足を一本伸ばして、私も左手の人差し指を足の先端へとつんと合わせてみる。すると、精霊ジーナは喜んでいるのか、何度もつついて、それから指に足を絡めた。


 精霊ジーナのおかげで和んだ私は、少し悩んだが、変わったり減ったりするものでもないし、自分でもその事実を受け入れるために、クリュニーのお言葉に甘えて口に出して説明してみることにした。


「婚約の話が流れてしまって」

「うん? ん? 君の?」

「父が、えっと……カテナ子爵ってご存じですか?」

「あー、うんうん! あの鉄壁将軍? あれ、君の名前……アリアン・カテナだったか、なるほど」


 こくり、と私は頷く。


「ご存じのとおり、父は一代で貴族の身分となった軍人です。だから、私には由緒ある貴族の家に嫁いでほしいといつもおっしゃっていて、ブレッツィ伯爵家と交渉していたそうなんですけど」


 私の父、カテナ子爵ステファノは元は平民で、隣国との戦争で際立った武勲を挙げたことによってカテナ子爵家を創立した軍人だ。何でも、百人で国境の砦に立て籠もり、数万にも及ぶ隣国の大軍の侵攻を二ヶ月にわたって防いだそうな。


 そんな父は、没落貴族の娘である母ジュディッタと恋に落ち、母を迎えるために武勲をアピールして貴族の身分を得て結婚を果たしたらしく、何かと苦労したそうだ。貴族の身分にこだわりがあり、だからこそ娘の私を同じ貴族に嫁がせたいと思っているだろう。


 しかし、実際には、私は貴族の婚約にまったく向いていなかった。


「なるほど、ブレッツィ伯爵家といえば確かに歴史ある名家だ。それで、婚約の話は成立せず、と?」


 クリュニーの指摘に、またしても私は頷くしかない。


「多分、私がダンスを踊れないから、貴族令嬢として問題があるから、父は他の家にブレッツィ伯爵家の子息を紹介して、そちらで婚約が決まりそうだという話です」


 ここまで話して、やっとクリュニーは私が落ち込んでいる理由を察したらしく、目を泳がせ、言葉を選んで、私を慰めてくれた。


「何というか、傷つくかもしれないが、貴族の家同士の話っていうのはそういうものだ。気にしないほうがいい」

「そう思います。でも、やっぱり、父も私のような娘は嫌なのだろうと思うんです」

「踊りができないからって? ただそれだけで? 見てみなよ、精霊ちゃんジーナだって怒ってる」


 クリュニーが両手で持つクラゲ型の精霊ジーナは、横に引き伸ばされて細長い足を何本もばたつかせ怒っているようにしか見えない。しかし、細長い足の一本は、私の指に絡まりぎゅっと握って、まるで励ましてくれているようだった。


 ただしクリュニーは言葉を選びすぎて、あろうことか豆知識でお茶を濁そうとしていた。


「このあいだの歴史書で見たと思うんだが、大昔は舞踏会は精霊のための舞を競うためのものだった。他国の影響で、次第に王侯貴族の男女の社交界になってしまったけど、元は精霊と波長の合う卓越した踊り手を探すための場でもあったんだ——って、うぅむ、すまない、慰めるのは慣れてなくて」


 うっかり私は、そうですね、と相槌を打ってしまうところだったが、何とか未遂に終わった。


 気まずい空気が漂い、私とクリュニーは精霊ジーナをもて遊び、緊張がほぐれるまで無言だった。次第に精霊ジーナも触られすぎたのか、クリュニーの手から逃げ出して空中をぷかぷか浮き、太陽光が半透明の青い体で柔らかく分散されていた。


 私は、気遣ってくれたクリュニーに礼を言おうとする。


「クリュニーさん、話してしまった私が言うのもあれですけど、本当にお気遣いなく」

「ごめん……よし、気晴らしに他のことをしよう!」


 妙案でも思いついたらしく、クリュニーは閃いたとばかりに指を鳴らす。


「アリアン、ひょっとして舞踏会に出たことは……ないね?」


 ——そんなもの、あるわけがない。他人の踊りを見ることすらできないのに。


 その言葉を、私は意地を張って、口に出せなかった。だから、私の気持ちなど知らず、クリュニーはすみやかに話を進めていく。


「よし、ちょっと見に行こう。後学のためにも、見ておいたほうがいい」

「そんなこと、できるんですか?」

「正面から行くわけじゃないよ。こっそり見せてもらうだけさ。夕食の後、図書館に来てくれ。前と同じところだ、カーン先生には話を通しておくから」


 言うだけ言って、クリュニーは精霊ジーナを呼んで、一目散に校舎の方角へと走り去った。


 残された私は、ちょっとだけ考える。


(断ればよかったけど……でも、何でだろう、舞踏会を一度見てみたいって思ったのよね。踊りなんて見たくもないのに、どうかしてるわ、私)


 その自分のほんのちょっとの変化を、私はああでもないこうでもないと悩んで、自分の考えに納得が行かないまま、夕食後を迎える。

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