第3話 婚約話は流れ、同級生に
数日後、午前の授業を終えて教室から出ていこうとした私を、フェネラ先生が嬉々として呼び止め、褒めちぎってくれた。
「アリアン、先日のレポート、素晴らしかったわ。舞踏会の歴史について、簡潔かつ要点を押さえた文章、最高学年とはいえ初等部の生徒が出すものとしてはトップクラスの出来よ」
「ありがとうございます。貴重書の中から本を探すのを手伝ってくれた先輩がいらしゃったので、私の力だけで完成させたわけではなくて」
「ああ、カーン先生からお話は聞き及んでいるわ。それでもあなたの頭脳があってこそよ」
大層な褒めっぷりだが、普段は厳しく添削してばかりのフェネラ先生には滅多にないことだ。それほどにクリュニーと精霊ジーナが手伝ってくれたレポートの出来がよかったのだろう、そう思うと私も悪い気はしない。
ただ、フェネラ先生は念のため確認に、と私へこう問うた。
「ねえ、アリアン。本当に、踊りはできないのね?」
それまでの褒められた喜びはさあっと冷めて、私はまた俯いた。考えるのも語るのも嫌な、私にとっての『踊り』をどうしても話さなければならないようだった。
「……はい。信じていただけないかもしれませんが、踊ろうとしても、踊れないんです」
身に覚えのない記憶やあの激しい感情のことは隠して、私はそれまで克服のためにやろうとしたことをそのまま伝える。
「何だか、怖くて。最初のステップさえ踏めないんです。目の前で実演してもらって、同じようにやろうとしても、体が動かなくて、震えてしまって……どうしてだか、自分でも全然分からないんです」
かつて私は、実家のカテナ子爵家の屋敷で、母や家庭教師に教わりながらステップを踏もうとした。しかし、その一歩さえもできなかったのだ。子どもなりにまともなダンスステップを踏もうと躍起になったが、結局は泣きながら母の胸に抱きつく有様だった。
今となっても、それは変わらない。あの見知らぬ記憶や激情を怖がり、私の体は『踊り』を拒絶していた。
よほど私の言葉が真に迫っていたのか、やがてフェネラ先生は私の説得を諦めたようだった。
「分かりました。単位自体の免除はできませんが、レポートの提出でよしとしましょう。けれど、そこまで酷いのなら、ご家族には相談したの?」
「はい、でも」
「そう……もし私にできることがあれば力になりますから、遠慮なく相談しなさいね。ごめんなさい、つらいことを聞いてしまって」
「いえ、わざわざありがとうございます。それでは」
フェネラ先生の気遣いに感謝し、教室を出てひとけのない螺旋階段を降りようとしたところ、後ろから誰かが私の体にぶつかってきた。
慌てて手すりを掴み、私は階段の途中で振り返る。
螺旋階段の数段上に、三人の同級生たちがいた。そのうちの一人、白に近い金髪の少女が、高圧的な嫌味を口にする。
「あら、鈍臭いわね。嫌だわ、触らないでくれるかしら。踊り下手が移ってしまうわ」
くすくすと他の二人は笑っているが、私は至極冷静にこう思った。
(ぶつかってきたのはあなただし、階段の上のほうから落ちたら怪我じゃ済まないから、何というか稚拙……子どもの考えることっていうか、うん、言わないでおこう)
もちろん突き飛ばされた怒りがないわけではないが、あまりにも高飛車な少女——エミリアナとその取り巻きが馬鹿なことをしているため、白けてしまった。
それはさておき、私が返事をしなくても彼女たちは勝手に話を進めていた。
「エミリアナ、かわいそうよ。足が動かないそうだから放っておいてあげなさいよ」
「ふふ、そうね。ごめんなさい、望んでそうなったわけではないでしょうに」
「そうそう、だって、貴族なのに踊りのステップさえ踏めないなんて、ねえ? 不思議だわ」
「ご家族だってさぞ嘆いてらっしゃるでしょう? あらあら、そういえば、カテナ子爵閣下はあなたのことなんて興味がないのかしら?」
「お母上はメヌエットの名手なのに、娘はこれだものね」
これは——もしかして——嫌味を言っているつもりなのだろうか?
思わず私はキョトンとしてしまった。だって、ほら。
(この人たち、私のことすっごく詳しい……何でそんなに興味があるんだろう、不思議。いや、多分、大人たちのモノマネをしてるんだろうけど、咎めたって何も分からなさそうだから、反論するだけ無駄よね……)
もしここにセセリアがいれば、私が止めるのも聞かずエミリアナたちへ突っかかって行くだろうが、幸いにして今日は家の用事で欠席していた。
十二、三歳の少女たち、それも貴族令嬢として蝶よ花よと育てられた彼女たちは、精一杯背伸びをして、早く大人の淑女の仲間入りをしたいのだ。別にエミリアナたちだけではない、他にもそんな生徒たちはごまんといるから珍しい話ではない。噂話を仕入れたらすぐ話したくなる、という幼稚な思考も手伝って、この類のモノマネ失敗談は枚挙に
(まあ、踊りができないっていう欠点が目立つ私が標的にしやすかった、というのもあるだろうし……それ以上に、生粋の貴族令嬢からすれば私の実家、カテナ子爵家が新興だから気に食わないってこともあるでしょうね)
私だって自分のことはそれなりに客観的に見ている。こんなしょうもない、色々と付け入る隙を与えたほうが悪いのだ、ということも知っている。
だから、私がさっさと螺旋階段を下りようとしたそのとき、エミリアナが引き留めた。
「お待ちになって」
「何? まだ何かあるの?」
エミリアナの勝ち誇った顔に、嫌な予感はしていた。
ただ、どれもこれも、私に止められることではなかっただけだ。
「まだ確定ではないけれど、あなたにも知る権利はあるから教えてあげるわ。先日、カテナ子爵が我が家にいらっしゃったの」
「お父様が……?」
「ブレッツィ伯爵家とあなたの婚約の話がまとまらなかったから、代わりに私を紹介してくださることになったわ。だから、私がブレッツィ伯爵家の次男シルベリオ様と婚約する方向で調整しているの」
これには、今の今まで冷静だった私も、「はあ?」と声を荒げてしまった。父の動向も、婚約の話も、初耳だったからだ。
しかし、突然のエミリアナの吉報に取り巻き二人が甲高い声を上げて祝福しはじめたおかげで、幸いにも私の声は届かなかったようだ。
「そうなの? エミリアナ、おめでとう!」
「シルベリオ様って中等部にいらっしゃる、ハンサムな方よね? 学期末の成績優秀者にも名前があったわ!」
「将来有望な方じゃない! おめでとう!」
私が見上げる階上では、三人の少女たちがキャッキャと喜びを分かち合い、あまりのことに私のことなどもう視界に入っていない。本当に彼女たちは何をしに来たのか、嫌がらせという目的を忘れていないだろうか。
蚊帳の外にされ、一抹の寂しさを感じながら、私は捨て台詞を吐いておいた。
「そうなの。教えてくれてありがとう、それじゃ」
多分、彼女たちは私の言葉なんて一切聞いていない。始まる前に終わった婚約よりも、これから始まるであろう婚約のほうが喜ばしいことだから。
私はできるだけ何も考えないよう、足を動かし、昼食も食べずに静かな場所を探し求めた。
このとき、私は早めに気付いたほうがよかったと思う。——私も、意外とショックを受けているのだ、と。
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