鋤焼肉豆富

智野めいき

鶏のぶつ切りと煮出しの飯

 鈴花は自分よりも二つ年下だというのに、自分の年齢以上に大人びた子だ。二十歳を数えたか、あるいはそこから一つ下か、そのくらいの歳の娘っ子というのに、自分以上に大人の風格というか、気品、空気とも言えるようなものが漂っている。品がある女性、気品のある女性という感じ、鈴花からはそういう強さみたいなものを感じる。

 でもそれだけじゃなく、どこまでも真っ直ぐに伸びゆく竹のような感じだろうか。とても清々しい。

 彼女は自分と同じ学科の後輩で、如何様な由あってかはわからないが、いたく自分に懐いて、よく家に出入りしている。


自分も彼女が可愛くないわけじゃないし、寧ろ可愛く思うのだが然し、恋人というわけでもない。妥当な言葉の見えない微妙な距離のある関係と言うほかにはない。

 彼女は今日も家に来ていて、今は彼女の為珈琲を淹れてやって、そして自分もまた珈琲を飲みながら本を読んでいた。

「『なぜに殺めるのかって、そんなものは知らぬよ。知りたくもない』」

 彼女が突然、口を開いた。恐らくは彼女が読んでいた小説の、その一節を引用して。

「……いきなりどうしたんだ」

「……あれっ、私声に出ちゃってましたか。ふふ、どうやら声に出して読むのが癖になってるみたいで。どうにも小説を読んでいると、声に出すのが楽しいんですよね」

「そうか」

 なるほど確かに自分も声に出して読むことはあるかもしれない。ただ単に彼女はそれが人よりも顕著ということだろうか。しかしまぁ、この実々に静かに本を読むという時機にいきなりそんなことを言われても、少々驚く。

「それはさておき、先生。今日の夜ご飯はどうしましょうか」

「鶏のぶつ切りがあったからね。炊いていただくなんてのはどうかな」

「いいですね、いただきます」

 どちらが、誰が動くのを見るでもなく、二人ほぼ同時に本を畳んでは足を上げて、支度にかかる。


 鍋を使う折、カセットコンロを使うのが好ましい性分だ。一人暮らしの身の上には物が少ないので、机の上はすぐに片が付く。カセットコンロに鍋を置く。この時、単に置けるだけではいけない。ガタつこうものなら、折角突ける鍋も善い気分で突けなくなるのだから、確りと安定する鍋を置きたいものだ。

 そうして自分は水を張った鍋を置いて、カセットコンロを捻って、ぶつ切りの鶏を入れた鍋を火にかける。時が過ぎるのを、今ばかりは甘んじて見逃す。焦ることは必ずしも幸に働くとは限らない。この鍋が温まるまでの間だけでも、ゆるりと時を見送ることも悪いことではあるまい。じっくり待ち置いたって構わない。

 ふっと視線を上げ、鍋を見る。鍋からじわり、かすかにほのかに鶏の出汁と旨味が混じった香りが立ち上る。

「良い香りですね」

「ああ。心躍るよ」

「……お出汁の香りはどうしてこうも食欲をそそるのでしょうかね」

「そういう風にできているんじゃないかな」

「それはお鍋がでしょうか。それとも……人の心が」

そう言われると、なにか不意を突かれたような気がして、ふと考えてしまう。

「どちらも、かな」

ひどい返しだ。鈴花に一つ負けた気さえ起きた。


 鍋の中ではぐつぐつと鶏が煮えている。見ていれば鶏肉の肉汁が溢れ出し、こうしてじっくり見ているだけでも料理に心を弾ませる。水量は決して多すぎず、あくまで鳥を煮出して出汁の出るのを見届ける。

「そろそろ、いや、まだ」

 ぐつぐつと煮え立つ鍋を前に、じっと鍋を睨み、蓋を取れば鶏の高い香りがふわ、と立ち上る。味見をすると思った通り、未だ完全に煮出しきれていないようだが、こればかりは辛抱強く待てばよい。

 蓋を再び閉じて火にかける、その間に椀を箸と渡しておく。

「先生、そろそろじゃないですか」

「もう少しかな。待てばより美味くなるよ」

「待ちきれませんね」

 彼女が覗き込んで来るものだから、鍋の中が見えるよう蓋を開ける。透明だった水は染まり、鶏肉にもしっかりと火が通っているようだ。蓋を戻して火にかけてはまた待つ。

「お腹空いちゃいますね」

「そうだね。でも君、さっき何か摘まんでなかったかい?」

「あれはおやつですよ、先生」

 鈴花はくすりと笑いながら言った。

「本当に食欲旺盛だね」

「そう言われるとなんだか恥ずかしくなっちゃいますね。先生が、私を大食漢か何かのように言うんですから」

 鈴花は眉を八の字にして笑う。

「ああ、すまない。気を悪くしたなら」

「冗談です。別に構いませんよ。ただ、先生に食べると言われると変な感じがするだけです」

「そうかい。君の食べっぷりは気持ちの善いものだけれど」

 そう言うと彼女は微笑んだ。彼女が一口、口に運べば、釣られるように自分も箸が進む。どちらかと言えば食べる方ではない自分も、鈴花の来訪を受けては食材と見つめ合う時間が増える。加え、今まで一人でする分には作ったことのないような料理に手を出せる機会も、また増えた。

 鍋で煮込むにせよ、炊き上げるにせよ、作ればまた新たな世界が広がるもので、それが何とも面白い。

「そろそろいいかな」

「あ、緩み口になってますよ。可愛い」

 鈴花が指摘して笑うものだから、思わず恥ずかしくなる。

「そんなに口元が緩んでいたかな」

「いえ。お腹を空かしている姿が可愛かっただけです。ほら、また目が」

「いや、そんなつもりはないんけど」

「先生こそ、私のこと大食いだと思っていません?」

「ああ、実は」

「酷いこと言ってくれますね、こんな儚い乙女に対して」

 鈴花はむすっとしてみせるが、表情は可笑しく笑っている。彼女も冗談として受け取っているということだろう。

 鍋の蓋を開ける。優しく煮立つ鶏の香りが辺りに溢れかえる。こうして香りを感じれば、火の通りも充分にだろう。鶏を器に取り分け、鈴花に渡す。

「ありがとうございます」

 箸を握った彼女は、早速とばかりに鶏ぶつ切りを箸で解しては口に運ぶ。ぱちりと目をしばたかせると、一つ頷いて、また鶏を口に運ぶ。

「うん。美味しいですね」

「そうかい。それは良かった」

 自分も鶏をいただくとする。柚子胡椒をちょっぴりとつけて口に運んだ。鶏の肉汁が溢れ出て、出汁がそれを下支えしている。ほんのりと効いた柚子胡椒の風味もまた、たまらない。

「やはり美味しい」

「はい、美味しいです」

 鈴花は嬉しそうに笑った。

「それは何より」

 鶏をつつきながら、彼女の話に相槌を打つ。彼女自身もよく食べるが、自分がまだそれほど口にしない頃でさえも鈴花はあっという間に平らげてしまうものだから、見ていて飽きない。

「やはり食べるのはいいですね。このお米もまた、なんと美味しいことでしょうね」

「そんなに美味しそうに食べて貰えると、こちらも嬉しいよ」

「それはそうですよ。先生が私のために作って下さるんですから、美味しいのは当たり前です」

「そうかい。甲斐もある」

 実際それほど手がかかったというわけではないものだが、こうして笑顔で食べてくれる人を見ていると、どうにも嬉しくなってならない。自分が食べる時は何となく冷めた料理を食べる気持ちでいることが多いものだから、その楽しさが伝わってくるようだ。

「先生が美味しそうに食べているところを見ているのも、私楽しいです」

「まぁ、美味しいものを食べる時は自然と表情が緩むものだろうからね。そういうものなんじゃないかな」

「私は食べるのが人より早いのは自覚していますけれど、先生の方がお顔を緩ませてる時が多いと思いますから」

「……そうかい、わからないが。君の目にそう映っていると云うなら確かにそうかもしれないね」

 自分では気づかないうちに、緩んでいたのか。鈴花はまだ笑っている。

「先生ももっとたくさん食べましょう。まだまだ食べるものはありますけど、私に全部全部、何もかも食べさせようとお作りになったわけではありませんよね?」

 鈴花が鍋を見やる。二人分の鍋にしては多いかもしれないと、自分としては気持ちばかりそのようなつもりで作っていたのだが、減りの早いのが目に見えた。こればかりは複数人で食卓につかねば至らない現象だろうと思って、可笑しくなる。

「ああ、そうする」

「はい、それがいいですよ」

 彼女はにっこりと笑った。溌溂、というよりも綺麗な印象、綺麗、静かという形容がよく似合う笑みを浮かべる。

 絶世の、というような美形まではいかないが全体的に均整の取れた顔立ちで、自然と目が引き寄せられてしまうような何かがあった。


当たり前だが鶏がなくなれば鍋の中は寂しさを極める。もとより鶏よりほかに実はないわけで、つまり鍋の中身は食べてしまえば、なくなった。多少の気寂しさにあてられたのか、鈴花はほんのり眉を下げた、淋しそうな顔を見せた。

「……葱でも切ろうか。飯も入れて、雑炊にでも」

「いいアイディアです。賛成です」

 彼女は心底嬉しげに言う。

独りでいることだって幾度と無くあるわけだが、自分が日常の中で誰かといるというのがひとつ嬉しく思えた。

 鍋の中身を雑炊にすれば、湯気を立てながら再びの香りが立ち上り始める。柔らかく煮込んだ葱に米がまとわりつき、しっとりした食感の旨味を底の方から持ち上げてくる。鶏の出汁がより全体を豊かに、得も言われぬ奥深さで旨味を広げていく。

鈴花は蓮華に雑炊を掬うと、ふうふうと息をかけて冷ましてから口に入れ、熱そうにしながら目をしばたかせた。もく、もく、そうしてこくり、と喉を動かすと、それまで黙っていた分というように次々言葉が出てくる。

「美味しい。こんな美味しいもの、今まで食べたことがない気がします」

「嬉しいけれど、大袈裟じゃないか」

「大袈裟じゃないですよ。先生の作ったご飯は本当に美味しいです。もっと食べたいくらい」

彼女の表情を見る限り、決して嘘を言っているわけではないように思うが、他の誰でもない自分に言われても、どうにも信じる気にはなれなかった。

「こんな男が作った料理だから……適当だし。少しは手をかけているけれどね」

自分の料理はあまり褒められたものでもない。一人の身では手のかかるものを作ろうとしないのもあり、その所為かどうにも煮込み料理にはなることが多いのだ。

鈴花は少し頬を膨らまして、言わずともこの言葉に対して不服、不満、そう言ったものがあることを伝えてきた。

「美味しいご飯は美味しいですよ。それを適当にいただいてちゃあ、何もかもに失礼ですから」

鈴花はわざとらしく拗ねて見せた。

どこか暫く昔の、子どもの頃の妹に重なって見えた。

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鋤焼肉豆富 智野めいき @rightkyu618

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