夜もすがら(4)

 十九、




 いつもの高崎絵麻らしく、「ねえ」と言ってきた。赤色になるまで熱せられていた顔は、今度は色を徐徐に失いつつあり、高崎絵麻という人間の存在が希薄になっていくようであった。


「あなたって、私のことを君って呼んでばっかりで、名前で呼んでくれないよね」


「そうだな。でも、それで言うと君だって同じじゃないか」


 高崎絵麻の方だって俺のことをあなたと言うだけで、名前で呼ばれた記憶はない。


「それは、だって、なんかまけたきがするもの」


「どういう勝負だ?」


「わかんないけど。なんか、さきになまえでよんだほうがまけってかんじがするじゃない」


「そういうものなのか?」


 俺にはその気持ちがまるで理解出来なかった。理解してみようと、考えていると、高崎絵麻はタオルケットの中からそっと手を出してきて俺の右手が包まれた。


「ねえ、ちょっと、ほっぺた、さわってみて」


 言われて、いつもよりも白い頬を触ってみるとさっきまで高熱を出していたとは思えない程、冷たかった。


「高崎?」


「いまさらね。それにこんなときにもなってみょうじだなんて」


「――――」


「あなたらしいといえば、あなたらしいわね」


「――うん」


 理解しないでいようと思っていたのに、ここに来て込み上げてくる気持ちがあった。高崎絵麻の声は、いつもらしい張りを失って、頬を触る俺の右手に重ねられた手から徐徐に力が感じられなくなっていった。


 『ゾンビ』に感染した影響。『ゾンビ』に感染した人間は高熱を出し、そして最後には知性を無くし、一切の人間らしさを失ってしまう。


 死の予感。こんなにも急だとは思ってもいなかった。小さな違和感は、高崎絵麻の薄れていく表情を見る度に確信へと変わっていった。


「ねえ、なかないでよ。もうさいご――」


「最期なんて言うなよ。まだ、まだ分からないだろ」


「わたしにはわかるのよ」


 そう言って高崎絵麻は微笑んだ。


 人の死はもっと劇的なものだと思っていた。これでは愕然とするしかない。ずっと大事に見つめていた砂時計が、ふと目を離した瞬間に割れているかのような絶望。


 頬を流れる涙が重かった。


「だから、なかないでっていってるじゃない」


「無理なもんは無理だよ」


「うん。ありがとう。わたしはもうなみだもながせないみたいだけどっ、ん。さいごになまえをよばせて、しょうたろ――」


「祥太郎だよ――絵麻」


 今更言っても無駄なことだった。高崎絵麻は眠っていた。炊飯器のお米が炊き終わり、陽気なクラシックが流れたのも丁度その時だった。


 唖然。人の死がありふれた景色であるかのように目の前で起きた。思い返して見れば、人の死というのはそれほど珍しい光景でもない。すこし街を歩けば死体の一つや二つ簡単に見つけられる世界なのだ。それでも、こんな最期はないと思っていた。




 俺は高崎絵麻の体をソファから落として、その手とソファの足に手錠をかけた。この手錠が手錠として機能したとき、俺はなにをすればいいのだろうか。そもそもこんなことをして良かったのかという迷いすらまだある。


 高崎絵麻の肉体が高崎絵麻として死んだ時、俺はこの部屋をこの状態のまま保存したいと思ったのだ。せめて、高崎絵麻の生きていたその最期の状態を残しておきたかった。もはや、忘れ去られていく存在になってしまったことが怖かった。


 忘れたくないとは思っている。しかし、高崎絵麻が居た時のこの部屋の温度と今の温度が違うのかどうなのかも分からないし、頭の中で高崎絵麻の声を再生したとしても、本当にその声であっているのかどうか確かめることも出来ない。徐徐に、そして着実に忘れていく、これは疑いようもない事実だった。


 それでもそのままにしておくことは出来なかった。それは高崎絵麻の肉体がいずれ『ゾンビ』のものになるからだ。


 世の中が求める行動がこれではないことは明らかだった。この体が『ゾンビ』になると分かっているのならば、警察に通報して引き取ってもらわなければならない。あるいは、ここで殺せという人間もいるかもしれない。


 俺にはいずれも出来ないことだった。


 精神としての高崎絵麻はもう死んでいる。だから、もはやこの体を置いておくべき論理的な理由は何もない。まさか俺がこの体に恋をしていたというわけでもあるまい。『ゾンビ』になるだけの肉体をどうして俺はこんなにも大切に思えるのだろうか。もしかしたら、『ゾンビ』は治るかもしれないなんてそんな希望的観測をしているわけでもない。


 そんなこを考えている時に、『ゾンビ』は産声をあげた。醜い呻き声をあげて、暴れだし、ソファを引きずる音がなった。


 その肉体が高崎絵麻のものであった時には見せなかった劣悪な表情と狂暴な牙を見せた時、俺の中で初めて殺意が湧いた。


 これほど憎いことはないと思ったのだ。どうせなら、肉体もその精神と共に儚く消え去ってくれればこんな気持ちにはならかっただろう。


 その肉体があげた生への咆哮は卑俗としか思えなかった。俺の急な訪問に対して、熱がありながらも部屋を綺麗にしようとしたり、薄く化粧をしたりといった、最後まで人間であろうとした高崎絵麻の精神が侮辱されたような気になってならなかった。美しく舞い散ったはずの桜が、アスファルトの上で雨に晒され腐ってしまったのだ。許せるはずもなかった。


 俺は駆り立てる殺意に身を任せ、床でのたうち回る下劣な存在に強烈な打撃を加えようとしたが、しかし、すんでのところで理性が戻ってきてしまい、結局何も出来なかった。


 それが悔しかった。俺の好きだった高崎絵麻がまるで他人に犯されているかのようであった。張り裂けそうな程口を開けて、聞くに堪えない悍ましい声を発しながら、ソファの下に転がっていたリモコンを見つければ、それをただの凶器として扱い俺に投げつけても、それでもなお俺には手出しが出来なかった。


 手錠をされているのは俺の方だったのだ。その行動が、その性格が、その他あらゆるものが高崎絵麻とは似つかないものであるというのに、その肉体が高崎絵麻のものであるというだけで、俺はこのケダモノに近づくことも逃げることも出来なかったのだ。


 俺は全身の筋肉が弛緩していき、体が崩れ落ちた。この屈辱を晴らすには、もはやこの『ゾンビ』を殺すしかないということは分かっているというのに、俺は何も出来なかったのだ。


 こうなる前に、高崎絵麻に言われたように警察に通報していれば何も知らずに済んだのかもしれない。バレない浮気は人を傷つけないなんてそんなことを言うつもりではないが、しかしこんなことになってしまうなんてことは知りたくないことだった。


 高崎絵麻の肉体が爪を立てながら床を引っ掻く地獄絵図を俺はただ眺めていることしか出来なかった。


 俺は以前、こういう感情に対して無駄だと言ったことがある。脳死の娘を持つ母親が、ヒステリックになりながら娘はまだ生きていると主張するドキュメンタリーを見た時のことである。


 しかし、たった今どうであろうか。高崎絵麻の脳は『ゾンビ』に支配されているかのようであり、そしてこれに対して治療の手立てなんてない。つまり、高崎絵麻はもう死んでいるのだ。だから、もう、この『ゾンビ』に対して何をしようと高崎絵麻には何の関係もないはずなのに、何が俺の心をこんなにも縛りつけるのだろうか。


 俺はもう自分で自分を嘲笑うぐらいのことしか出来なかった。今もこの高崎絵麻とは無関係の生物に、どうしても高崎絵麻を重ね合わせてしまうのだ。

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