夜もすがら(3)
十八、
「ピーラーの使い方ってこれであってるのか?」
「知らない。持ってるだけで使わないから」
「そうか」
俺は家庭科の時間で習ったことを思い出しながらピーラーを使い、そして剥き終わったリンゴを、皮をゴミ箱に捨てた皿にのせて高崎絵麻に手渡した。
「ありがとう」
タオルケットの下から細い手が出てきて、高崎絵麻は微笑みながらそう言った。
「ちょっと、変な形ね」
「悪いな」
言いながら、俺は立ち上がって炊飯器を見に行った。炊きあがるまで残り十八分だった。そんな確認をしてから、もう一度ソファの方へと行くと、高崎絵麻のリンゴの手は止まっていた。
「食欲ないのか?」
「ええ、ごめんなさい。わざわざやってもらったのに」
「ああ。一度、机に置いとくか?」
「――そうさせてもらう」
俺は高崎絵麻から皿を受け取って、机にのせた。リンゴは三口程度にしか齧られていなかった。
「ねえ、ちょっと、お手洗いにいってくる」
高崎絵麻が手で口をおさえながらそう言ってきた。今にも吐き出しそうという様子で、俺が「ああ」と返事をする前に高崎絵麻は立ち上がろうとしていた。
揺らいでいた不安の地盤はここで確固たるものへと変わり、その感情はより強固なものへと変わった。小池山下病院に『ゾンビ』の感染者がいたこと。そして、『ゾンビ』が人肉しか食べれないという事実と、リンゴを食べて即座に吐き気を催した高崎絵麻。高熱を出していた高崎絵麻に対して、努力して半信半疑を貫いていたが、しかし今はもうそれが紛れもない事実と認める他なかった。
トイレから出てきた高崎絵麻は手を洗うだけではなく、口を漱いでもいた。
そうしてから高崎絵麻は暗い顔に無理矢理笑顔を貼り付けた感じで、言ってきた。
「ねえ、私はもう大丈夫だから。もう帰ってもらっても大丈夫よ」
「そんなふらついた足で大丈夫って言われても説得力に欠けるよ」
高崎絵麻の声が徐徐に消え入るものだったのに対し、俺は語気を強めてそう言った。その圧力で封じ込めようとしたのだが、高崎絵麻は尚も主張を続けてきた。
「でも、だって、私は、私はもう『ゾンビ』に感染しているだろうから。あなただって気付いているんでしょう?」
これはお互いが自覚していながら、声にはしなかったことだった。こうなることが分かっていたから。高崎絵麻が『ゾンビ』に感染していることは、この青いゴミ袋で作られた個人防護服を手渡されたことからも分かる通りお互いの共通認識だった。しかし、それを実際に言葉として声にすることが怖かったのだ。言霊なんてものを信じているわけではないが、ちょうど幽霊のようにそれを恐れないわけにはいかなかった。本能的な問題と言えるだろう。
俺は高崎絵麻の問いに対して答えるべき言葉を見つけられなかった。
俺は無視したことになる。そうすると、あの言葉以前でお互いが何か動きを見せたわけでもないから、この空間の在り方というものも、また、あの言葉以前で何も変化はないはずなのだが、しかし、とてもそうは思えなかった。
池に石を投げれば瞬間的に水が飛び散るが、しかしその瞬間にさえ目を瞑れば、池はまた元通りの風景を繰り返すことになる。俺もまたそうなることを期待して、高崎絵麻の言葉に目を背けたのだが、しかし、空いた穴に水が押し寄せることはなかった。
「――ほら、それに、もう夜も遅いから」
ぽっかりと空いた穴を埋めるように、優しい声で高崎絵麻はそう呟いた。
あらゆる感情がひしめき合うが、やはりどう言葉にすればいいのかが分からない。高崎絵麻に対して、俺がここに居続けていいと思わせる説得材料が見つからないのだ。
高崎絵麻が「だから――ほら」と呟いて、玄関の方へと目をやった。しかし、他人を説得させるだけの論理が見つからなかったとて、認められないということもあるのだ。小池山下病院での蛮行もそれだった。
「例え君が『ゾンビ』に感染しているとしても、俺は君の側にいたいんだ。それに、もしかしたら感染していないのかもしれない」
「もしかしたら感染しているかもしれない。あなたにうつしてしまう可能性が一パーセントでもあるのなら――。もう、あなたを部屋に入れてしまっている私が言うのもあれだけど――」
「だからもう一緒だよ。だから良いじゃないか」
「でも、一パーセントでも確率を下げれる方法があるのなら――」
――俺には帰って欲しい、とは言わずに、高崎絵麻は俯いた。 その隙に俺は有用な嘘を思いついた。
「ずっと言ってたかったけれど、俺ももう『ゾンビ』に感染しているんだ」
俺がもし『ゾンビ』に感染しているのなら、高崎絵麻が主張している俺を帰す理由がなくなるはずだ。
しかし、もしかしたら、これは嘘とも言えないものなのかもしれない。同じ職場に感染者がいるだけで、高崎絵麻まで感染しているというのなら、その感染者とこうして喋り続けている俺も感染しているという可能性は十分にある。
悲嘆すべきではない。
俺が『ゾンビ』に感染していることについて、思うところはある。これから死ぬとして、後悔が何一つないかと訊かれればそんなことはない。取りこぼしの多い人生だった。しかし、このような世界で、これはありきたりな言葉にはなるが、君のいない世界に生きる意味はないと言うのが本心だった。いや、ひょっとするとこれは少し違うかもしれない。君と死ねるのなら、そこには意味がある。そう思える。
俺は涙を流すことで精一杯の高崎絵麻の手を握り、ソファへと連れてった。泣き終わると、「ごめんなさい」という言葉を連呼していたが、俺は何も言葉を返さなかった。
頬の涙も拭き終わった後、高崎絵麻は「私がここで『ゾンビ』になったらどうする?」と訊いてきた。
新しい迷路だった。
「そのことは、その時になるまで分からない」
俺はとりあえずそう答えた。目の前で高崎絵麻が『ゾンビ』になったらどうすればいいのか。それは考えなければならない問題でありながら、しかし考えたくない問題だった。今は先送りするほかなかった。
俺はこうして何か新しい話題を作ろうとしたが、高崎絵麻に「それじゃあダメよ」と止められた。
「私が『ゾンビ』になったらちゃんと警察に通報しなきゃ」
俺は「そうだな」と言って見せた。しかし、そのつもりは全くなかった。
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