夜もすがら(2)

 十七、




 女性の部屋にあがるのはこれが初めてのことだった。一度、高崎絵麻が酒に酔いすぎた際に玄関までは見たことがあったが、内装をここまで見ることはなかった。


 どこかで匂ったことのある花の香りがした。しかし、それが高崎絵麻と一緒に過ごしている匂いだと思うと、どういうわけか新鮮に思われて、妄想の中に高崎絵麻の服を剥ぐ淫猥な自分がいた。


 そんなことを考えている場合ではないと自制するも、その自制が必要という事態に俺は俺を恥じた。


 部屋には程よい生活感があった。展示ハウスのような作り物の美しさではなく、人肌を感じられるとても人間らしい綺麗さがそこにはあったのだ。


 一見、掃除が行き届いているようであるが、よく目を凝らしてみれば埃が落ちていたり、コンセントはうねうねとしており、そのわりに机の上だけやけに整えられている。これが急造のものであると見て分かったので、俺は申し訳ない気持ちになった。


「じゃあ、俺がおかゆか何か作るから寝ていてくれ」


「ありがとう。冷蔵庫勝手に開けていいから。――」


「寝て待っていてくれ」


「うん。ごめんね」


「何も問題ない」


 俺はそう言ってキッチンへと向かった。そういえば、こういう時は俺がおかゆの具材を買ってくるべきだったのだろう。何も考えずに来てしまうから、こうなるのだ。念を込めて、炊飯器を開けて見ると、悪い予想があたって空だった。冷蔵庫の方にはおかゆがつくれるぐらいの具材があった。


 俺は米櫃から、一合分のお米をすくった。が、それが高崎絵麻の余命かのような縁起の悪さを感じてもう一合すくって、米を炊いた。早炊きモードにしても三十分はかかるようだった。


 ふと気になって、シンクを覗いてみると、そこには何も置かれていなかった。


 リビングのソファに寝転がっている高崎絵麻の方に行ってから、まだ目が開いているようだったので声を掛けた。


「大丈夫か?」


「大丈夫じゃないかも」


 高崎絵麻の頬には涙が流れていた。


「ご飯が炊けるまで三十分ぐらいかかるから、それまで待ってくれ。あっ、リンゴがあったようだけど、あれ、食べるか?」


「ん、じゃあ、それお願い」


「ああ」


 俺はそう言ってから皿にリンゴと包丁を載せて、また高崎絵麻の方に行った。キッチンで皮を剥いてもよかったのだが、どうしても側にいたかったのだ。


「いつから熱出てるんだ?」


「昨日の夜から」


「じゃあ、ご飯もそこから食べていないのか?」


「えっ? ん、うん。なんだか食欲が全くでなくて」


「そうか」


 言われてから、『ゾンビ』は人肉しか食べないということを思い出した。高崎絵麻の『ゾンビ化』はもうすでに始まっており、そしてこれから徐徐に知性を失い、最後には人を襲う『ゾンビ』になる。


 途端に尻ポケットから重みを感じ始めた。市橋から貰った手錠が、突然実体化したかのような感触だった。


 もしも、もしも目の前で高崎絵麻が『ゾンビ』になったら、俺は何をするべきなのだろうか。国は『ゾンビ』を発見すれば、通報するようにと言っている。また、『ゾンビ』は施設で保護するなんていう風に言っているが、それも先週の自衛隊の行動を見れば何も信用できない言葉だった。


 そもそも『ゾンビ』の食事をどこからまかなっているというのだろうか。


「そう言えば、お前って古典作品なんて読むんだな」


「見たの?」


「ああ、リンゴを持ってくるときに」


 ここに来る途中に本棚が置いてあり、そこに少女漫画や漫画版の『源氏物語』が入っていたのだ。さらに現代語訳の『後拾遺和歌集』なんてものまで持っていたから驚きだ。よくよく考えて見ると、俺は高崎絵麻のことを何も知らないのではないかと思えた。


「古典が好きなやつなんて珍しいからな。そんな人がこんなに近くにいるとは思わなかったよ」


「意外?」


「ああ」


 言いながら、リンゴの皮を剥く手を止めて視線を上にあげてみると、高崎絵麻と目が合った。危うくリンゴを落としてしまいそうだった。


 熱が込み上げてくるのが分かったので、俺はそれを隠すように「いつから好きなんだ?」と訊きながら作業に戻った。皮と同時にリンゴの実ごと抉ってしまっている。


「んーと、本格的に読み始めたのは大人になってからかな」


「どうして読もうと思ったんだ?」


「きっかけは小学校でやらされてた百人一首かな? そこでなんとなくその時代のモノに興味を持って、って感じだと思う」


「百人一首か」


 俺はそれを高校で行われたカルタ大会ぐらいでしかやったことがない。そして、どちらかと言うとそれは悪い思い出に分類されるものだ。三対三のチーム戦なのだが、対戦相手の一人に経験者がいたせいで俺達は五枚しか取れなかった。何も楽しくなかった。


「それにしても、小学校で百人一首なんて。俺のところはそんな授業なかったなあ」


「あっ、いや、授業じゃなくて。先生の趣味で教室に百人一首が置かれてたのよ。それで休み時間になるとみんなそれで遊んだりして」


「へー。俺の小学校にそんなのがあったとしても、誰もやらない気がするな」


「当時はほら、百人一首のあの映画が流行ってたから。まあ、私のクラスでやってたのは五色百人一首だけど」


「五色?」


 五色百人一首というのは聞き馴染みのない言葉だった。小倉百人一首というのならまだ聞いた覚えがある。それらと、俺が知っている百人一首との間にどんな関係があるのかは知らないけれど。


「五色百人一首というのは何なんだ? 例えば、俺が知っている『春過ぎて』とか『あしびきの』とかは、それにはないのか? それこそ『ちはやふる』とか」


「いやいや、使われてる歌はどっちも一緒だよ。ただ、百枚全部使うんじゃなくて、一色二十枚にグループ分けして遊ぶミニ百人一首みたいな感じ」


「百枚じゃなしに、二十枚だけで遊ぶっていうことか?」


「そうそう。『春過ぎて』は黄色、『あしびきの』は青色で、『ちはやふる』が緑色って感じで分かれてて、みんな好きな色で遊ぶの」


「へー。この色が人気とかあるのか?」


「そんなに目に見えてって言うのはなかったけど、やっぱり緑色が人気だったかな。そしてなんとなくオレンジが少なかった気がする。別にそんなことはないと思うんだけど、オレンジってちょっと難しいんだよね」


「ふーん。全部、同じ三十一文字なのに難易度に差なんて生まれるんだな」


「なんとなくだけどね。あなたは百人一首やったことあるの?」


「ああ。ちょっとだけなら」


 一回だけと言えば良い所を、ちょっと、なんて言ったのはこのまま高崎絵麻の好きなことの話をしたかったからだ。高崎絵麻の顔は熱で赤いようであったが、しかし明るい表情だった。


「じゃあ、何か好きな歌とかあったりする?」


「んーいや、正直あんまり覚えてなくて、さっき言った三枚ぐらいしか記憶にないな」


「ふーん。じゃあ、『かくとだに』なんて言われても全く分からない?」


「聞き覚えすらないや。最後にやったのは随分と前だからなあ」


 覚えてない理由はそういうわけではなく、たんに学校で行われたカルタ大会の時にも興味を持たなかったからだ。当時は、こんなものをわざわざ覚えたって何の意味もない、無駄だ、なんて思っていたけれど、今になってそれを後悔した。まさか、その経験が生きる機会がこんなところにあるとは思いもしなかった。


「ねえ、そんなことより」


「ん?」


 言いながら顔をあげると、高崎絵麻は俺の手元を見ていた。


「やってもらっといてあれだけど、遅くない?」


 リンゴの皮はまだ半分も剥けておらず、しかもでこぼこ。


「あー。いや、ごめん。慣れてなくて」


「カッコつけて包丁なんて使うからよ。引き出しにピーラーもあるのに」


「――――」

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