夜もすがら(5)

 二十、




 俺はこの目の前で起こっている有様から逃避しようと、頭を床に埋め、耳をふさいでいた。それでも尚微かに感じ取れる床の振動と奇怪な呻き声に心をかき乱されていた。


 『ゾンビ』といってもこれはやはり括弧付きのゾンビで、本来の意味でゾンビになったわけではなく、所詮はただの人間であるから三日三晩待ち続ければこの『ゾンビ』は死ぬ。


 俺はもう待ち続けようと思った。本当はこの手で仇を取りたかったのだが、しかしそれは出来そうになかったのだ。


 かといって決意といえるようなものでもなかった。やはり、あの化け物に高崎絵麻の姿を重ねてしまい、例えそういうことではないと分かっていても、あの肉体が死ぬことに対して抵抗を覚えてしまうのだ。


 八方塞がりというわけではなく、ただ足が竦んでどの道にも踏み出せないという情けない男というのが俺のことだった。生きた人間はいともたやすく殺せたというのに、『ゾンビ』は殺せないというのは何と可笑しな話であろうか。


 警察に通報してしまえばそれでお終いという解決策が見えているのにも関わらず、俺の思考は螺旋を描いて抜け出せそうになかった。高崎絵麻の精神と肉体を分けて考えれない自分が愚かだった。


 この部屋に居続けることも、また出ることも苦痛で、もはや生きることが苦痛だった。結局のところ、俺はその苦痛に対して苦痛を味わっているだけで、何も考えれていなかったのだ。


 あの『ゾンビ』を生かすことも殺すことも考えれていないのである。『ゾンビ』を生かすには食料が必要であり、そしてその食料とは人肉である。つまり、俺にとって『ゾンビ』を生かすなんて選択肢はあってないようなものなのであるのだ。かといって、あの『ゾンビ』が高崎絵麻の肉体を持っている以上、あれが死ぬことも許せなかった。


 堂堂巡りである。


 そんなことを考えている折、部屋のインターホンが鳴らされた。理由は、この目の前にいる存在のせいであろうということは即座に理解が出来た。ドアが数回叩かれていることからも、訪問者が宅急便ではないということは明らかだった。


 まずいと思った。もう、この部屋に『ゾンビ』がいるということがバレてしまったというのだろうか。そうなれば、警察に通報されて、高崎絵麻の肉体が攫われてしまうことになる。俺は近くにあったタオルケットを猿轡のように化け物の口に縛り付けた。躊躇はあったが、時間がなかった。


 玄関へ向かい、ドアスコープを覗いてみると、幸いなことに外にいるのは警察ではなかった。まだ通報はされていないようであるが、ドアを睨みつけている中年の男は今にも人を殴りそうな程、不機嫌だった。


「すいません」


 そう言いながら、ドアを開けた。男は俺と目が合うと、訝し気にしながら部屋の方を覗き見しようとしていた。


「どうされましたか?」


 そう訊くと、男はより一層不機嫌な顔をしていたが、しかし冷静さを保つためか咳払いを一つしてから「いやね」と言って、肘を壁の方につけた。


「こんな時間ですからね、お気持ちは分かりますよ? でもね、もう少し静かにやってくれませんかね?」


 俺は男が何を言っているのかよく分からず、「何のことでしょう?」と訊いた。すると、男は今度は冷静さを取り払うように咳を一つしてから「だから」と怒気を籠めて言った。


「やるのは別にかまわねぇんだけど、うるさいって言ってんだよ。全部隣まで聞こえてるから」


 男はどうやら高崎絵麻の隣人のようで、そして愚かな勘違いをしているようであった。しかしここで神経を逆撫でしても無駄であろうから、俺は「すいません」と謝罪の言葉を並べてからドアを閉めた。


 リビングに向かうと、小さな呻き声が零れ落ちていた。あの男はどうやらこれを性交の喘ぎ声だと勘違いしていたらしかったのだ。馬鹿だと思った。これほど無感情な喘ぎ声がどこにあるだろうか。これほど欲情しない喘ぎ声がどこにあろうと言うのか。これを愛の喘ぎ声と断じてしまうあの男は強姦魔に違いないと思った。


 夜風を浴びて俺の頭は少し冷静になったようで、先ほどよりは俯瞰的にモノが見えるようになった気がする。かといって、この先取るべき行動は何一つ分からなかった。


 俺は地を這う獣に侮蔑の目をくれてやってから、机の上に置かれたリンゴを見た。あの高崎絵麻が齧ったリンゴである。劣情が駆り立てている気配を感じた。今にも張り裂けそうな程、俺は興奮していた。いつの間にか、俺はそのリンゴを手に取っていた。


 歯形がくっきりと残されている。どういうわけか、このリンゴにだけ高崎絵麻を感じることが出来た。俺にとってはあの見た目だけの『ゾンビ』よりもリンゴの方が高崎絵麻だったのだ。この部屋もあの肉体ももはや高崎絵麻のものだとは思えなかった。このリンゴにだけ高崎絵麻の魂が宿っているように感じられたのだ。


 そうして、俺はリンゴを手に取ってアパートを出ていた。どうやら俺がしようとしていることは世界で一番無駄なことであろうということは分かっていた。それでも、そうせずにはいられなかった。


 深夜を駆け抜ける。景色は覚えてない。ただリンゴの重みだけを感じていた。息が切れ、足が重くなり、いよいよ急ぎ足すらやめようとしていた時に丁度いい場所が見つかった。


 誰にも邪魔されない空き地。そこで、俺はリンゴを齧った。涙が出ていた。人を殺しているかのような感覚だった。高崎絵麻との思い出が世界から消えていくような気がした。


 それでも残るものはある。俺は一度口の中に入った種を吐き出し、そしてそれを地面に植えた。


 このリンゴの木が生る頃、俺は死んでいる。芽を見ることすら叶わない。むしろ、こんなのでリンゴが生るのかどうかさえ不安だった。そうなると、これら全部は無駄なことかもしれない。それでも、大切なのはこの無駄なことに意味を与えるのが人間らしい活動だと思ったのだ。俺にとってあのリンゴは特別なものだったのだ。


 俺はその空き地に『楽園』という名前を付けた。


 俺は『ゾンビ』によって突如、人生のゴールテープを与えられていたような気になっていた。まるで全てがこれで終わりかのように。しかし、この比喩は今になって思えばいささか疑問に残るものだった。


 ――「バトンパス」


 俺はそう呟いた。良い遺言だと思う。きっと市橋が俺を殺してくれるだろう。そして、願はくはあの『楽園』が本当の意味でそうなればという風に思う。




 《了》


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【長編】螺旋階段 三文 @Sanmonmonsan

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