螺旋

夜もすがら(1)

 十六、




 不安を押し殺しながら、いつものバーで待っていたが高崎絵麻が来ることはなかった。ふと見た時計に、一切の見覚えがなく、同時に違和感さえ覚えてしまうのは、いつもなら女の仕草に夢中になって時計の動作などに見向きもしないからであろう。分針が次の数字を指すと同時に、ここにはない秒針を妄執を以ってあの時計に取り憑けてしまったが、しかしその秒針が十二という数字を指したとしても、分針はわずかな動きを見せるばかりで、次の数字を指すことはなかった。


 心構えが出来ていなかったわけではない。素直に言ってしまえば、高崎絵麻がバーに来ないという事態に驚きはないのだ。ウイスキーに沈んでいる氷というのは直観に反することではあるが、しかし液体に沈んでいる氷というのは経験で何度も味わっていることで、今更疑問を投げようとは思わない。俺は高崎絵麻が来ないかもしれないという可能性についてこの一週間囚われ続けていたのだ。


 しかし、この事態に直面して、さらに解決しなければならないという状態に陥った時、俺は自分の頭脳を役立たずと断ずることしか出来ず、気付けば財布から二枚、三枚、あるいはもっと多くの紙幣を無造作に抜き取って、机に叩きつけていた。


 そうして鳴った音に自分が冷静さを欠いているということを気付かされたが、しかし、今は自分に付き合っている暇はないと考えて、刺すように向けられている視線から感じられる負い目を無視して店を出た。


 吐いた白い息をまた自分で吸ってしまうような足の遅さに悶えながら俺は走った。視界の端で騒ぎ立てる麻薬中毒者も、座ることが精一杯となった死者も、俺にはその全てがどうでも良いことだった。いつもなら、美しい死体を見つけてしまえば、時に劣情を以って見惚れることがあり、その償いとして回収するよう通報することもあったが、今の俺には高崎絵麻について考えることだけでいっぱいだった。


 やがて高崎絵麻の住むアパートへと辿り着き、俺はインターホンを押した。どれほどの時間が経ったのか、腕時計を見る余裕さえ俺にはない。ただ、ひたすらにドアの様子を見ていた。


 そして、最悪の事態ではなかったようでドアは開かれた。途端に喜びと共に恥が身を襲った。安堵からくる冷静さが原因だった。


 俺の体臭には、飲んではいないもののアルコールの匂いが混じっていたのだ。そんなものを纏いながら女性の家を訪問したことに後悔を覚えていた。


 それでも、そんな感情は高崎絵麻の顔を見た途端に吹き飛んだ。


「どちら様――って、えっ? 吉田さん?」


 俺を認識すると、高崎絵麻はドアチェーンを外し、三日月程度にしか見せていなかった顔の全面が俺に向けられた。しかし、全面の顔と言っても、口元はマスクに覆われていた。


「その、大丈夫か?」


「うん。あの、ごめんなさい。今日は一緒にお酒を飲めなくて。少し体調が悪いの」


 そう言いながら、急いでドアを閉めようとする高崎絵麻に俺は「気付いているのか?」と、ドアを無理矢理こじ開けながら訊いた。


 無理矢理と言っても、それほどの力は必要なかった。相手は服を裏表反対に着てしまうほどの体調不良者である。錆びついたドアを開けることよりも容易なことだった。


 右肩をドアに挟みこみ、少しの躊躇を覚えながら高崎絵麻の額に右手の甲を当てたが、その手が触れるよりも前に、熱気は感じ取れていた。


「それじゃあ、満足に食事もとれていないだろう?」


「う、うん。でも、大丈夫だから――」


「気を遣わなくていい。何か作るよ」


 そう言って、俺が高崎絵麻の家に入り込もうとすると、肩を掴まれて「少し待って」と言われた。


「その、したいことがあるから。だから、そうだ、近くにあるコンビニでお水でも買ってきて」


 俺はその言葉に「分かった」と答えてから、高崎絵麻がドアを閉めるのを見ていた。マスクの下も容易に想像出来る程、顔は熱によって赤く染め上げれており、足元は震えていた。


 ――高崎絵麻は『ゾンビ』に感染したのだ。『ゾンビ』の感染力がどれほどのものか、いまいち分かっていないところもあるが、しかしあの院内で『ゾンビ』の感染者がいたことから、こうなる可能性は予期できていた。高熱というのはその初期症状である。もしかしたら違うかもしれないなんて、そんな楽観視をするわけにはいかなかった。かといって、この現実を直視することも出来なかった。


 現実逃避をしようと空を見上げた。一週間ぶりに見る月はあの時と比べて随分と欠けており、さらにその光は病弱のように思われた。ロマンの象徴である月よりも、二十四時間営業のコンビニエンスストアの方が夜道を強く照らしていると思うと、自分の価値観がより一層憎く感じられた。光度の問題から、月の存在に無駄という言葉を貼り付けようとしていた自分に気付いたのだ。今日中に死ぬ人間の世話をしようとしているのに、いったい俺はどうして他人に無駄だと言えるのであろうか。


 コンビニに入店して、ただ強いだけの白い光に嫌気がさしながら、俺は飲料水なんかが売っている棚に向かったが、俺は途中にあった炒飯やパスタが置かれている冷凍庫の前で足を止めた。


 以前の俺は、ミートもペペロンチーノもカルボナーラも全部スパゲッティと言っていたのに、いつから周りにつられてパスタと呼ぶようになったのだろうか。


 足を止めれば止めるだけ負の感情が湧いていく。俺はそれをやめる為か、あるいは逃げ出す為か、足早に用を済ませた。




 数分ぶりにインターホンを押す。前回は異様に重たく感じられた指が、今度は軽かった。


 今度はいきなりドアが半分も開かれ、高崎絵麻の全身が外に出てきた。裏返っていた服は、きちんと戻されていた。顔をよく見ると、さっきはしていなかった化粧をしていた。俺はそのことに言いようもない寂しさを感じたが、その感情は無礼だと判断して隠すことにした。


 高崎絵麻は俺が右手で持っている二リットルのペットボトルを見てから「ありがとう」と言って、俺からそれを取ろうとしてきた。


「いやいや、いいよ。俺が部屋まで持っていくから」


 まるで無理矢理に部屋に入り込もうとしている男のようであったが、俺はその通りだと思った。しかし、高崎絵麻は俺が部屋に入ること、それ自体に反対をしているようではなかった。


「ありがとう。でも一端貸して」


 そう言って、強引にペットボトルを奪おうとしたから、俺はそっと手渡した。


「んっ。意外にちょっと重いね。それで、ハイ、これ。ここから先はレッドゾーンだから」


 俺は「レッドゾーン?」と訊き返しながらたたまれている青いゴミ袋を受け取った。


「これは何?」


「意味があるかは分からないけれど。ちょっと広げてみて」


「ああ」


 言われた通りにしてみると、その青いゴミ袋にはちょうど二つ、腕を通すような穴が空けられていた。


「一応。感染するといけないから準備してみたんだけど」


「あー、感染対策の防護服か。別に良いのに、こういうの」


 そう言いながら、俺は高崎絵麻からマスクも受け取った。本当は、こういうことはしたくなかった。たとえ『ゾンビ』に感染しているとしても、俺はいつも通りの気持ちと恰好で触れ合いたかったのだ。しかし、こんなものを着てしまえば、まるで私は貴方を警戒していますと言っているようなもので、俺にとって無用な緊張感を生むことになる。ただ、これは高崎絵麻にとっての気休めになるだろうと着ることにした。


「ねえ、このタイミングになって言うのもあれだけど、やっぱり私は一人でも大丈夫よ。だから――」


「ううん。俺の我儘も聞いてくれ。俺がお前の側にいたいんだ」


「その、ごめんなさい」


「ここはありがとうって言ってくれた方がうれしいな」


 言いながら、俺は靴をいつも以上に丁寧に脱いで、高崎絵麻の部屋へとあがった。

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