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十五、
俺は自分の中に矛盾を抱えながらここに立っている。人類は近々滅びると思っているし、だからこそここで人助けなんかをしても無駄だと思っている。病院に突入するときには高崎絵麻を助けたいという目的意識があったから良いものの、どうして俺は市橋の口車に乗せられて、ノコノコとこんな場所までやってきたのだろうか。
本当は、人類にはまだ助かる手段が残っている、行動すれば何かが変わる、なんてそんなことを考えているわけでもない――だろう。
この世は地獄。人の死因は『ゾンビ』だけではない。『ゾンビ』に噛み付かれて死んでしまうだけではなくて、市民警察という名のテロリストが無差別な殺人を起こしていたり、また麻薬なんかも横行していたりする。西洋程の荒れようではない。しかし、ここは朗らかな地獄だと思う。もう手遅れだろうと。
一体どうして、俺は無駄なことを嫌いながら無駄なことをしているのだろう。横にいる市橋は、やるべきことだから、なんてそんな風に言っていたが、しかし人を助けることがやるべきことだとしても、どうせ滅びるのなら無駄なことに変わりないのだ。
高崎絵麻が飛び立つのを見送ってから、俺はそんな風なことを考えいていた。いつかこの思考がまとまる日はくるであろうか。
「なあ、市橋」
「なんですか?」
「お前はどうして来てくれたんだ? わざわざ俺と一緒に病院の中まで。お前は院内の制圧に賛成していたんだから、自衛隊の突入はむしろお前の望むところだったはずで、つまりお前にとってはことが上手く進んでいたはずだ」
市橋はやれやれとでも言いたげなポーズをとってからけだるそうに溜息を吐いた。
「吉田さんが恋仲の人を助けにいったのと同じですよ。他人が死ぬのと、友人が死ぬのとじゃわけが違うんですよ。そんなこと、わざわざ言わなくたって分かるじゃないですか。真っ先に動いたのは吉田さんなんですから」
「少し照れくさいな」
「素直に良い友人を持ったと誇ってください」
「そうしておくよ」
俺は市橋から顔を背けた後に、「それで」と言って会話を続けた。
「俺達はこれからどうなると思う?」
「さあ、捕まるんじゃないですか? 公務執行妨害とか、それ以外にも余罪はたくさんありますからね。僕達には」
市橋は言わなかったが、この余罪の中には殺人の二文字も含まれているのであろう。俺はあの時のことを思い出して、途端に手の重みが何倍にもなっていくのを感じた。実際、感触というのはほとんどなかった。トリガーを引くのに、それほど力はいらなかったし、発砲音もオモチャのようで、何もしていないのに目の前の人間が血潮を吹いている、そんな感じだった。
今は、既に手錠が掛けられているのではないかと思うほど、手が重たかった。
「ああ、これで僕も無職ですよ」
「案外、良いもんだぞ」
「そうですか?」
「無職の生活なんてお前には想像できないかもしれないけどな、案外普通だ。スリリングなことが何も起きないというだけだ」
「普通ですね」
「そうだろ?」
「ええ」
言いながら、市橋はちょうどさっきの高崎絵麻と同じように柵にもたれかかっていた。
「そろそろですね」
「何がだ?」
「いえ、こっちの話です。そんなことよりも、吉田さん。これを受け取ってください。いつか必要になるでしょう」
そう言われて市橋の方へ振り向いてみると、足元に手錠が投げられていた。しかし、俺はそんなことよりも気になることがあったのだ。
「おいっ、市橋。何をしているんだ? 何かの冗談か?」
なんと、市橋はあろうことか柵の向こう側にいたのだ。俺の方を見る顔がどうしてこんなにも明るいのか、不可解でしかない。彼は、あと一歩でも後ろに下がれば地に真っ逆さまに落ちる。
「市橋、悪い冗談ならやめてくれよ」
俺がそう言ってから、市橋の方へ歩き出そうとすると手のひらをこっちに向けて「待ってください」と言ってきた。市橋はなおもニヤニヤとした顔を浮かべている。
「どういうつもりなんだ?」
「いや、んー、僕が無職になるなんて言うのはプライドが許さなくてですね」
「その程度のこと、べつに――」
「別にじゃないですよ。人には言葉に出来ない大切なものがあるんですから。吉田さんもそこに気を遣ってください。それでは、さようなら」
「おいッ、ちょっと待て!」
この言葉を避けるように、市橋の姿が視界から消えていった。どうして彼が最後まで笑っていたのかも分からない。この急展開もわけが分からない。
俺が無意識に無き彼の残像を追って柵に掴まると、彼が向かった地上から、ぼふっという音が聞こえて来た。
「ぼふっ?」
音の正体を探る為に、地上を見てみると元気そうな市橋がいた。そして、俺は合図が出てから市橋の真似をした。恐怖を押し殺して、身を投げた。
――ばふん
「随分な演出をしてくれるじゃないか」
俺は舌打ちをしてから市橋に怒気をこめてそう言った。
「無職になってもスリリグな展開が続いてて良いじゃないですか」
俺達が飛び降りた先にかたい地面――ではなく、セーフティエアクッションという高所からの降下用救助器具が置かれていた。俺がそこに大の字になっていると、市橋の顔が目の前にやってきた。
「六十メートルから落ちても大丈夫らしいですよ。素晴らしいですね、このエアマットは」
「素晴らしいのはお前の演技力だよ」
「良かったです。ニヤニヤがとまらなかったので不安でしたが」
「不安だったのはこっちだ」
「まあ、結果良ければ全て良しということで」
とりあえず、俺はこのクッションから立ち上がり、それで市橋の頭を叩いてやった。
「痛っ」
「お前が悪いッ!」
「私刑はダメです! ちゃんと警察に通報してください!」
「黙れ」
俺はもう一発市橋を叩いてから、向かって来ていた斎藤課長と自衛隊の熊谷静香に頭を下げた。
「斎藤課長、その申し訳ございません」
俺がそう言うと、斎藤課長は笑いながら「すぐ本題に入ろうとするのが君の悪いところだ」と言ってきた。しかし、今の俺の言葉は謝罪のものである。それを無視するということは、それほど怒っているというわけでもないのだろうか。
もしくはトランシーバーを渡された時に謝罪をしなかったことを怒られるのだろうか。電話ならまだしも、俺はトランシーバーを使って謝罪をしたくはなかったのだ。謝った後に、どうぞ、なんて言うのは少し決まりが悪い。
斎藤課長はまた笑いながら「どうだったかな」と訊いてきた。
「えっと、院内は――」
「そうじゃなくて、このクッションのことだよ。」
「ああ、これは驚きました。僕はヘリコプターが来ると聞いていたので」
「最初はそのつもりだったんだがな、警視庁に向かう用と、君達を地上に降ろす用の二台を使うのは少々面倒だと思ってね。たまたま持ってきたソレを使うことにしたんだ。あれっ、市橋管理官には伝えたんだが、聞いてなかったかな?」
「ええ。それで市橋が突然、飛び降り自殺の真似事をしてきたので殴ってやりました」
「現行犯逮捕――といきたいところだね」
「いきたいところだね? しないんですか? 色々と問題行動を起こしましたが」
「それらは全部証拠不十分さ。そういうことにした。まあ、全て見ていたが」
俺はこの辺りの理由について深く知りたいところではあったが、素直に「ありがとうございます」とだけ言って、エアクッションから市橋と共に降りた。
俺達の方から斎藤課長の方へ向かおうとすると、熊谷静香の方から俺達の方へやって来た。
「何でしょうか?」
俺は出来るだけ敵意を隠してそう訊いた。
「素直に感服したと言いたくてね。吉田、元管理官。テレビで見た人間とは大違いだ」
「知っていたんですね」
「もちろん。だからこそスカウトをしに来たのさ」
「スカウト?」
「ああ、その通り。吉田君、上に立つ人間が持っているべき素質とは何だと思う?」
俺は熊谷静香の意図が何も読み取ることが出来なかったが、とりあえず答えることにした。
「視野が広く、的確に判断出来る人のことではないでしょうか?」
「ほう、頭は凡人のようだ。貴様の考え方は凡夫と一緒だね」
俺はこの煽りに赤面したのか、夜風が少し冷たく感じられた。
「そもそも的確とはなんだ? 的確なんてそんなものは他者からの評価に過ぎない。そう、凡夫からの評価に過ぎないのさ。貴様の言ったことをリーダーシップだとかなんとかっていう人もいるけどね、何も分かっていない」
「しかし、的確に指示できなければ人を動かすことはできないでしょう? 上に立つ人間が人を動かせないのは大問題ですよ」
「船というのは船長が無能であったとしても他の乗組員が優秀であれば海を渡るさ」
「それで、あなたの考える上に立つべき人間が持っている素質とは何なんですか?」
「人を動かすのではなく、周りを巻き込んでいく情熱だよ」
「情熱? つまらないことを言いますね」
「ああ、でも吉田君が確信を持たせた言葉だよ。君がその横にいる市橋という男を巻き込み、そしてこの斎藤を動かしたんじゃないか。お前のせいで、市橋は院内に突入し、そして斎藤は特殊部隊を動かした。上に立つ人間というのは人を動かすんじゃなくて、動かせるんだろうね、自発的に」
「それを飲み込むとして、それで一体どうして僕をスカウトするいなんて結論に至るんですか? それに、僕にそういった素質があったとしても、自分勝手に動く人間じゃあ自衛隊なんて無理ですよ」
俺がそう言うと熊谷静香は「確かにね」と言って首を傾けた。俺としてはここで否定された方が嬉しい展開ではあったが、しかしここで本心を言わないわけにもいかないと思ったのだ。
すると、斎藤課長が嫌味節にこんなことを言ってきた。
「上に立つべき人間は、人の下に立つことを知らないから困ったものだね。天は二物を与えないとはよくいったものだ」
俺はもう一度、斎藤課長に「迷惑をかけて申し訳ございません」と謝罪をしてから、熊谷静香という男に「それで」と話しかけた。
「僕にこの素質があるとは到底思えないのですが、仮にこれを持っていたとして、これでは人の上に立つべき人間というよりも、ヒトラーのような悪い革命家を連想してしまいます」
「ああ、慧眼とも言えるかな。つまり、結局、俺は革命家が欲しいんだよ。どうせ、貴様もこの世はこれで終わりと思っている口だろう? だったら、最後に何か起こしたいと思ってね」
「それなら、と言うよりも、ますます僕はスカウトを断りますよ」
「ああ、残念だね。でも、最後にこれだけは伝えておこう。素直に君に感服した。俺は、やりたいことがありながらも、どんなときでも仕事を優先してしまう人間だ。もちろん、俺は俺の生き方に自信を持っているし、間違った生き方だとはこれっぽちも思ってやいなが、俺が君の生き方に感動したのは間違いのない事実だ。尊敬するよ」
そして、ずっと黙っていた市橋が口を挟んだ。
「性格の違いでしょうね。私のような三暗刻で着実に点数を取る生き方か、吉田さんのようなバカみたいに四暗刻まっしぐら、ロマン人間か。きっとそういうことでしょう」
「貴様の言いたいことはよく分からん」
市橋はまた黙りこくってしまった。そして、熊谷静香は「言いたいことは言い切った」と言ってから背中を見せてここから去っていた。この場に残るのは俺と市橋、そして斎藤課長だけとなったのだ。
「それで、斎藤課長」
「なんだね? 謝罪ならもういらないよ」
「いえ、一つだけ誤解をといておきたくて」
「誤解?」
「ええ。斎藤課長は、僕が警察のプライドを守るため、つまり一般人を救出するために院内に突入したとお考えでしょうが、実際はそうではなくて、という話がしたくて」
俺は斎藤課長に、自分が突入した理由が自分の好きな人のために、つまり利己的なものであったと説明するべきだと思ったのだ。
「ああ、その辺は市橋から聞いたからもういいよ。少しがっくしな話ではあったが、まあ、それも面白いから良い。事後処理は君の望む通りになるだろう」
そして、その言葉を継ぐように市橋が俺の目を見て言ってきた。
「でも、そこから先に起こる展開はどうしようもありませんからね。一応、手錠は渡しておきましたが、しかし場合によっては――、いえ、いざとなれば――僕が吉田さんを撃ちに行きますから」
「ああ、分かってるよ」
そうして俺は、市橋と斎藤課長に別れを告げて彼らから離れた。
ふと、夜風に引き留められたような気がして先程まで戦場と化していた小池山下病院の方へと振り向いた。屋上まで無限に続くかのように感じていた階段を何とか上りきり、そして高崎絵麻の身の安全を守り切ったと確信できた時には、思わず安堵の息を漏らしてしまったのだが、しかし、実際はここからが正念場であるのだ。
俺は死者に、小池山下病院にむけて合掌した。
すると能天気な市橋の声に、どうして無宗教なのに合掌するのかと問われた気がした。
「もしかしたら、いるかもしれないだろう? それに俺が信じていなくたって、死んだ人間は信じているかもしれないじゃないか」
俺は、もうこの俺自身が会うことはないであろう市橋の姿を空に思い描きながら、そう答えた。
きっとこれは無駄じゃないと思いながら。
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