キミと再会
十四、
「大丈夫ですか?」
知らない声を掛けられた。目を開け、立ち上がり、その姿を確認すると、俺は思わず「えっ」という声をあげてしまった。
「どうして、どうしてここに?」
その人は頭を掻きながら、どことなく申し訳なさそうなポーズをしていた。
「その、斎藤課長の命令で」
その人の声は透明のシールドに阻まれ籠っていた。その人は頭を守るためのフードで目元以外を隠しており、さらに冗談のような重装備をしている。ふと辺りを見渡せば、全く同じ格好をした人が何人もいた。
背名にはPOLICEの文字があった。屋上で出番を失っていた狂乱人対策部隊が、突入したということだろう。しかし、斎藤課長の命令とはどういうことであろうか。俺がそのことについて深く訊こうと思ったその時、その最強であるはずの狂乱人対策部隊の隊員が吹き飛んだ。
「えっ?」と声を出す暇もなく、俺はその隊員を吹き飛ばした人に抱きつかれた。
そして、その人は顔を俺の胸に埋め、「なにも、なにもできなくてごめんなさい」と泣きながら謝っていた。高崎絵麻だった。
俺は、今すぐに言葉を交わしたいと思ったが、そういうわけにはいかないことも分かっていたので隊員の方に目をやった。
吹き飛ばされた隊員が、「と、とりあえず、屋上に行きましょう。ここにいると、自衛隊とぶつかるので」と言った。窓から突撃し、テロリストだけを銃殺するという急襲作戦を成功させた人の焦りが、少し面白かった。
隊員に守られながら屋上へと辿り着くと、少し肌寒い風が身を包んだが、左腕だけは少しも寒くなかった。高崎絵麻が抱き着いていたからだ。
「ほら、一端、離れよう」
と俺は言ったが、その女――高崎絵麻は一瞬だけ顔を俺の方にあげて「イヤ」と言ってからまた顔を俺の肘辺りにおしつけた。
俺にとってこれ以上ないほどの幸せな出来事だったが、
しかし屋上には多くの隊員がいたし、また市橋が笑いながら俺の方を見ていたから、幸せを嚙みしめることだけに夢中になることは出来なかった。恥ずかしかったのだ。
そして嬉しくもあったから、本気で離れようとするわけにもいかなかった。離れようとするフリをするのが、俺にとっての最善手だと思われた。
そうしていると、向こうから一人の隊員がトランシーバーを持ってきた。
「そのままで大丈夫ですから。斎藤課長からです」
「ああ、ありがとうございます」
俺は右手しか使えないという幸せ半分の不便を感じながら、トランシーバーを受け取った。
「ええと、こちらトランシーバーを受け取りました、吉田です――。――どうぞ
俺は戸惑いながらボタンを押した。久しぶりにトランシーバーなんてものを使うから、勝手がよく分からなかったが、体がそれを少し覚えていた。トランシーバーは携帯電話とは違って、双方向から同時に喋ることが出来ない。だから、どうぞ、と言って話を相手にパスする必要があったのだ。
『ああ、斎藤だ。なんとか生きて帰れたようだが、まあ、始末は書けよ。勝手なことをしたんだから。どうぞ』
「いえいえ、私はもう警察ではありませんから。始末書は市橋の仕事です――」
俺がそう言うと、市橋がぎょっとした顔を見せた。それが面白くて、俺は吹きだしそうになったが、俺はしまったと思った。俺は高崎絵麻に自分はまだ警察であると嘘をついていたのだ。自分が今はもう無職であるとバレたくないがために。
俺が恐る恐る左腕の方を見ると、「知ってるわよ」という言葉が少しの怒気を含みながらかえってきた。俺は一端、今後の事を考えるのは忘れて斎藤課長との会話に集中した。
「――どうぞ」
『まあ、冗談はさておきだ。もうすぐそこにヘリコプターがくる。病院で人質になっていた人達は一度、警視庁で保護するが、君と市橋はここに来てもらう。以上、どうぞ』
「ええと、はい。それにしてもどうして、人質は警視庁へ? 普通は病院で――あっ、いえ。了解しました――」
俺は疑問を斎藤課長へ投げかけようとしたが、その真意に気付き訊くのをやめた。横に高崎絵麻がいたからである。
斎藤課長の方針は人質の奪還であったが、国はそうではなかった。人質が『ゾンビ』に感染しているかもしれない以上、いっそのことテロリストと同時に処理してしまえという方針であったのだ。斎藤課長は、この人質を出来るだけ安全に保護するために、病院ではなく、自分の目がいき届く警視庁を選んだのだろう。
「――どうぞ」
『ん、ああ。伝えることは終わった。下で待っている。トランシーバーは市橋に渡してくれ。以上だ』
そう言われて、俺は市橋を呼んだ。ニヤニヤしながら俺の左腕を見る市橋に思うところはあったが、ここでは見逃してやることにした。
肩の荷が下りた。ここで漸くそう思えた。まあ後で、斎藤課長に色々と報告しなければならないことがあるようだが、しかしヘリコプターが来るまでは、とくにやるべきこともないようであった。
銃声はいつの間にか止んでいた。自衛隊の方は任務を完遂したのだろうか。いや、今はもう仕事のことを考えるのはやめよう。
――夜風が身に染みる、だとか、空気が美味しいなんて言うのは目新しさに欠けるつまらない表現だと思っていたが、今になってこれ以上ない素晴らしい文句だと思った。
「いつまでそうしているつもりなんだ?」
俺は左腕に絡みついている高崎絵麻にそう言った。
「嫌だっていうの?」
「いや、そういうことではないんだが――。恥ずかしい」
「そう」
高崎絵麻は鼻を鳴らしながら俺から離れて、拗ねるような表情をした。
「そう怒らないでくれよ」
「怒ってなんかいないけど」
「――――」
「ごめんなさい。まず、最初に言うべきことがあったわ」
そう言って、高崎絵麻は俺の体を見た。視線の先にあるのは、俺が出血している場所だろう。
「ありがとう」
俺はその一言で全てが報われたような気がした。俺のやったことは無駄ではなかったんだと、ここで初めて確信が持てた。高崎絵麻の頬には涙が流れていたが、この女はそれを自分で拭って精一杯の笑みを見せてくれた。
「そして、ごめんなさい。あなたが殴られている時、何も出来なく――」
「いいんだよ。そんなこと」
俺は、そう言葉を挟んだ。
「二人とも助かった、それでいいじゃないか」
過去の話をするよりも、俺はこれからの話がしたかった。まずは――、俺がもう警察を辞めていたということをどうして知っているのかについて知りたかったが、それはまた今度にしよう。知っていながら、俺の嘘に付き合ってくれていた。このことも一端は忘れよう。
「うん。でも、どうして来てくれたの?」
困ったことを訊かれた。本当は、君のため、なんて言ってカッコつけたいところではあったがそれは嘘だった。そして、もう嘘を吐く気にはなれなかった。
「同僚から、仕事を手伝ってくれって言われたんだ。この話をうけた時にはまだ君がここにいるとは知らなかった。だから、結果的に君を助けることになっただけで――」
「ふうん。ここは嘘でもいいから私のためって言ってくれたらよかったのに」
「いや、もう君に嘘を吐く気にはなれないよ」
「ふーん。警察だって嘘、バレてないと思ってたの?」
俺は黙って頷いた。高崎絵麻は少し楽し気に笑っていた。
「ねえ、他の人達もここに来るの?」
今度はそんなことを訊いてきた。俺は良い返事を思いつくことが出来ず、「他の人達?」と言って誤魔化した。
「ほら、私達以外の、患者とか、看護師とか」
俺は何と答えるべきか分からなかった。嘘はつきたくなかったし、かといって本当のことは言えないと思った。まさか、自衛隊が皆殺しにした、なんてそんなことを言えるはずもないだろう。
「この話やめよっか。いいよ、私もなんとなく分かっているから」
「ああ、すまない」
「うん」
空気が沈んだ。俺は出口の見えないトンネルの中にいるような気分だった。昨日のバーでも最後、こうなっていたように思う。俺はここからどう挽回すればいいのかが分からなかった。
ふと、空を見上げると、そこには丸い月が浮かんでいた。気分に合わない、状況に合わない、こんな事件が起こった日には似合わない丸い月。ただ、それを見るだけで少し幸せになれた。
「満月だったんだな」
「え? あっ、本当だ。んー、でも、どうだろう?」
「ん?」
「少し欠けているような気もする」
「あー、いや、仮にそうでも四捨五入で満月だ」
「なにそれ。もう少しロマンチックな言い回しはないの?」
高崎絵麻がそう言いながら笑っているのを見て、自分の言葉が可笑しいように思われて、俺は頭を掻いた。
一時は、あの暗い雰囲気が漂ったまま終わってしまうのかと思ったが、この場違いな月に助けられた。幸せになるための手段は、案外そこら中に転がっているのかもしれない――なんて、そんなキザなセリフを思いついて、それと同時にキザな文句を思い出した。
夏目漱石による有名な日本語訳。彼はI love youという英文を、今夜は月が綺麗ですねと訳してみせたらしい。
その文句を言うにふさわしい場面だと思った。しかし、こんな月並みなセリフを、いまさら決め台詞のように言うのは、酒に酔っている状態ならまだしも素面となると気が引けてしまう。
高崎絵麻が目線をふっとおろして、俺の方を見た。
「月が綺麗ね」
「えっ?」
「なによ」
「いやっ、べつに」
「ふうん。それならそれで、別に良いけど」
俺はこれを偶然ということにして、高崎絵麻から目を逸らした。まさか、これが告白の言葉であるはずがないと考えたのだ。月が綺麗なんていうのは当然の感想である。
「月ってやっぱり良いよね」
高崎絵麻は月を指差して、俺の顔を見ながらそう言った。
「幸せの根本っていう感じがする」
「難しいことを言うね」
「いつものあなたの話よりはマシよ。理屈をこねくり回したヘンテコな話よりは」
「そんな風に思ってたのか?」
「それが悪いとは思ってないけどね」
俺達は見下ろせば地上となるような、屋上の端へと向かった。高崎絵麻は柵に寄りかかり、俺はそれを見ていた。
心地良い沈黙の時間。それを、いつもなら楽しむことが出来たのだが、今はそれが出来なかった。言葉を交わしていない時間が無駄だと思ったのだ。かといって、言うべき言葉も見つからず、俺は悶々とした。
そして、そうこうしているうちにヘリコプターが一台やって来てしまった。これは高関絵麻を含む院内から脱出した人を警視庁へ送るためのものだ。俺と市橋は後からくるヘリコプターに乗ることになる。つまり、ここでお別れということだ。
高崎絵麻は俺に「またこの月を見ようね」と言ってくれたが、笑顔を張り付けて頷くことが精一杯で、言葉を返すことは出来なかった。
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