揺れ動いている(3)

 十二、




 足音が響き渡る。銃声よりも怖いのが、人間の気配である。その人間こそが銃声の正体であるからだ。


 四階が目の前にあらわれ、その廊下を見たが人の影はない。しかし、足音は鳴り響いている。


「どうしますか?」


 市橋がそう訊いてきたが、ここにきて頭が真っ白になった。四階に行けば、すぐに高崎絵麻に出会えると、楽観的に考えていたところがあったからだ。大きな亀に囚われた姫様を助ける話じゃないんだから、たどり着いた途端に出会えるなんてことはあろうはずもないのに。詰めが甘かった。


 しかし戦わなければならないという点で、やっぱりこの例えは正しいのかもしれない。


「市橋は先にこの人達を連れて先に屋上に行ってくれ」


 俺は市橋が断れないように、後ろにいる人達の方を見た。ここに俺達二人しかいなければ、最後までついて行くと言って聞かなかったかもしれないが、状況はそうではない。彼にはやるべき仕事が出来たのだ。


「吉田さんはずるいですね。でも、そのセリフはちょっとはやいんじゃないですか?」


「えっ?」


「ここの階段は屋上までつながってません。だから、屋上に行くときは、この廊下をまっすぐ行ったところにある非常階段の方へ行く必要があります」


「ああ、そうか忘れていた」


「ええ。そこまでは一緒に行きましょう」


 そして、最後の一段、四階へと足へ踏み入れた時、後ろから銃声が鳴った。市橋とそれから何人かにおされながら、俺は階段を昇ったところにある壁にもたれかかった。敵にとっては死角、敵が四階へ立ち上がった瞬間に銃を撃てる場所だ。


 人質として捕えられていた女達が、俺と市橋の背中の後ろに隠れていたが、明らかに最初よりも人数が少ない。今はもう七人しかいないのだ。


「何人やられた?」


「分かりません。そんな計算を出来る程の余裕なんてないです」


「ここに来てピンチだな。いや、今までが上手くいき過ぎていただけか」


 銃声が何発あったかも聞き取れなかった。それが分かれば敵の人数も推測ぐらいは出来たのだが。しかし、向こう側から話し声が聞こえないことも考えて、やはり敵は一人であろうか。一人であるならば――


「どっちだと思う?」


「おそらく、テロリストの方でしょう。自衛隊なら集団行動をしてるはずです。それに容赦のない自衛隊なら今頃、手榴弾でも投げてきて僕達は死んでるはずです。装備品が銃だけしかないのなら、ますますこれはテロリストの仕業でしょう」


「信じるぞ」


「信じるのは命取りになる可能性があるので疑ってください」


「ああ、頭の片隅でそうしておく」


 敵は恐らく一人。そして自衛隊の方ではなくテロリスト側。武器は銃が確定で、この膠着状態を考えるに飛び道具はないと思っていいはずだ。あったとすれば、死ぬだけ。その時はこの体の震えも止まることになるだろう。


 来るなら早く来いッと叫びたくなった。この無言の時間が耐えられない。そして、耐えれば耐えるだけ不利になる。


 自衛隊は今、二階か三階で銃撃戦を繰り広げている。彼らが四階までくれば、俺達は自衛隊に撃たれる。警察の服装をしている以上、手心は加えてもらえるかもしれないが、この可能性はこの生と死の極限状態においては限りなく低いと考えていい。


 また四階にもテロリストはいるはずだ。今はまだその姿を見せていないが、いつ現れてもおかしくない。そして彼らに見つかれば確実に死ぬ。人を殺すことを躊躇うような状況ではないだろう。しかも俺達は警察の服装をしているのだから余計にだ。


「王手ってやつだな」


「詰みじゃないなら良かったです」


「初心者は最初、自分が詰んでることに気付けないらしいぞ」


 そんなことを言ってる場合ではなかったが、心を落ち着かせるために必要なことだった。それに、敵が一人ならば、こっちは複数人いるということをアピールするだけでも良い威圧感になるはずだ。


 俺はこの硬直状態こそが悪手だと考え、敵を脅すことを決めた。


「おい! そっちは一人なんだろう? 降参したらどうだ!」


 声を荒げて吠えてみるも返事はなにもない。もしかしたら敵はもう下にはいないのかもしれない。いや、しかし、そう思わせることが作戦という可能性もある。そして、もう声をあげようとしたその時、目の前に黒い影が飛び込んできた。直後、鉄の音が鳴る。


 爆発物を投げ込まれたのかもしれないと背中が凍ったが、投げ込まれたものは銃だった。目の前に銃が落ちている。


「降参です! 撃たないでください!」


 聞こえてきたのは声変わりもまだしていない、少年の幼い声だった。


 すると市橋が訊いてきた。


「どうしますか?」


 俺は答えることを躊躇した。もしも、聞こえてきた声が大人のものであれば、ここで射殺を選ぶことも出来た。相手が銃を捨てている以上、俺達が恐れることはなにもない。敵の前に姿を現して、発砲。それでお終いだ。


 しかし相手は子供。非情な判断を出来ずにいた。子供の声というだけで、相手に同情してしまったのだ。こんな世の中である。きっと色々あったのだろうと彼のストーリーに勝手に尾ひれをつけてしまう。


 結局、俺は相手を迎え入れることにした。立ち上がり、一歩前に出て相手の前に姿を見せた。階段の下にある踊り場、そこに少年はいた。身長から考えるに中学生か、あるいは小学校の高学年だ。頬には涙が流れており、子供のものとは思えないほどに髪が艶やかな黒色を失っている。


 俺は銃口をもしもの為に彼に向けていた。しかし、子供があまりにも怯えていたからそれを下ろした。


「手を挙げて、一段ずつ昇れ」


 小鹿のように足を震わせながら、階段を昇る少年に俺は「酷いことはしないから」と声を掛けた。市橋はその様子を壁に隠れながら見ている。銃口は天を向けられており、俺とは違っていざとなればいつでも発砲出来る姿勢を取っていた。


 少年が一段、一段と時間を掛けて階段を昇り、そして手を伸ばせば彼の手に触れられそうになったその時、彼は手を後ろに回した。


 少年は加速を見せ、急激に距離を縮めて来た。もう一度見せた彼の手にはナイフがあった。切先を俺の方に向け、狂気の目で胸を狙ってきた。


 俺は発砲した。サブマシンガンの恐ろしい連射力で、薬莢と血が飛び散った。金属が高い音を鳴らしながら階段を下っていく。少年は頭を守るようなこともせず、体を階段に打ち付けた。腹の辺りから血が流れ出ている。


 即死ではなかったようで、少年は呻き声をあげていた。


 その声は小さく、いつもなら聞こえないほどのものであったと思う。しかし、今はうるさいと思えるほど、まるで耳元で聞いてるかのようにその声が聞こえてきていた。文字で表せないような呻き声が、今の俺にとってはそれらすべてを平仮名で表せられるぐらいに、はっきりと一音一音全てが聞き取れていた。


 一音を聞き取る度に罪の認識が強くなっていく。俺は人を殺してしまったんだ。もう、もう、分かったから、いっそ静かに死んでくれと思った。聞こえてくる虫の息が、命を奪おうとしたことの実感を強めている。


 少年はそんな息の中で言葉を発した。


「全部、全部、お前等のせいだ! ボク達はこうするしかなかったんだよ! 隣の人がゾンビになって、それでお父さんとお母さんがゾンビに殺されて。なのに、警察はゾンビを捕まえるだけで。しかもお父さんとお母さんはゾンビに殺されたからっていう理由だけで、持っていかれちゃったんだ。そんなの、そんなのおかしいにきまってるじゃないか! だから、だからボクはもうゾンビに誰も殺されない世界をつくるために! それなのに、それなのに! お前等は、いったいなにをしてるんだよ! なんでボク達の邪魔をするんだよ! 何のために! 誰のために!」


 涙に埋もれながら出された声だった。その涙が痛み、後悔、悲しみ、恨み、そのどれからくるものだったのかは分からなかったが、少年はえずきながらそう言って、俺の方を睨みつけた。


 俺には少年の訴えが何も分からなかった。言っている言葉の半分も理解が出来なかった。あの時、彼がナイフを持たなければ、テロリストが銃を持たなければ、少しは理解してやることも出来たかもしれない。俺達の共通言語は日本語で、そこに一度でも暴力が入り込んだ時点でもう言葉での解決は不可能なのだ。俺はそう自分に言い聞かせて、自分の罪を正当化した。彼らにとっては言葉での解決が不可能であると感じたからこそ暴力に訴えたのであろうが。彼らをただのテロリストと呼べるのは俺の正義が多数派であったからに他ならないからであろうが。


 ここで俺は考えることを放棄した。俺の行動は正当防衛だ。そう、そうに違いない。


 俺はいつの間にか落としてしまっていたサブマシンガンを拾おうとしたが、その前に一度頬を叩いた。


 気持ちを入れ替えよう。


 そして振り返って廊下の方を見ようとした時、「手を挙げな」と知らない声を投げつけられた。


 三つの銃口が俺の方を向いている。人質を連れたテロリストがそこにはいた。そこに高崎絵麻の顔もあったが、俯いていて、向こうは気付いていないようである。


「ここまで来たというのに、これでお終いか」


「勝手に喋るんじゃないぜ? とっとと手を挙げな。ああ、その前にそこのおっかない銃をこっちに蹴飛ばしてもらおうか。腰を曲げたら、撃つからな? 分かるだろ?」


 銃口をちらつかせ、脅してきた。市橋と俺はほぼ同時に同じ動作をした。彼らの要求に従うことにしたのだ。

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