囚われている(5)

 七、




 部隊の隊長を交えて、基本的な方針と作戦を話し合った後、俺は近くの休憩室へと立ち寄った。


「吉田さんは実際のところ、どう思っているんですか?」


 訊いてきたのはパイプ椅子を並べて仰向けに寝転がっている市橋だった。俺はそれを座って見ていた。


「俺も本心では市橋と同じ考え方さ」


「つまり?」


「市民の安全を確保する義理はない」


「僕はそこまでいったつもりはありませんけど」


「似たようなもんだろ?」


「まぁ、的の端っこは得ていると思います」


 その後しばらく沈黙が続いたが、その沈黙を嫌ったのか、市橋は話題を続けようとした。


「どうして、そんな風に思ったんですか?」


「ん? ああ。それはこれからのことを考えてだ。ここで市民が死んだとしても、言ってしまえばそれまでだ。しかし、部隊の人間が死んだら次の事態まで悪くなる。お前が言った通りの考え方だよ」


「じゃあ、どうしてさっきは課長側に? 吉田さんってヒラメでしたっけ?」


 ヒラメと言うのは、上ばっかり気にしている。つまり上司のご機嫌取りをしている、と言いたいのだろう。


「今更、俺が上を気にするわけがないだろ?」


「まぁ、それはそうですけど。でもなおさらですよ」


「俺は、無理だと思ったのさ。俺もお前と一緒のことを考えていたが、やっぱり課長を説得出来るだけの材料が見つけられなかった。市民の命を軽んじることは、流石に出来なかったのさ」


「ふーん。でも吉田さんがこっちについてくれれば、最悪、多数決とでも言って意見を通せましたよ?」


「多数決なんかで決めたって険悪な雰囲気になるだけだろ。そんなものに納得感なんて全くないんだから」


「まぁ、それはそうですけど」


 市橋は俺のことが気にいらないようであった。市橋という自分の感情を起点として論理を展開していく男だ。つまり、自分の感情や価値観を大切にしている男だ。俺はそうではなくて、たとえ自分が嫌いな考え方であったとしても、比較的多数を説得出来るであろう側に立とうとする。


 個人の価値観を優先する市橋は根本的な発想法からして、俺のことが気に入らないのであろう。


 俺はコーヒーを一杯飲んで、溜息を小さく零した。無駄なことを嫌う性格をしているくせに、俺は随分と無駄なことをしてると思った。


「吉田さん、一つ良いですか?」


「何だ? 答えるとは限らないけどな」


「結局、どうしてこの話を受けることにしてくれたんですか?」


「どうしてこの仕事を引き受けたのか? ってことか?」


「はい」


「なんでだろうな。ちょうど、そのことを考えていたんだが答えは出なかった。お前の勧誘を断ることの方が面倒臭いと思ったのかもしれない」


「勧誘としては良い手段だったわけですね」


「ポジティブに捉えるな」


 市橋は突如、姿勢を正してパイプ椅子に座り直した。寝転がっていたのは短時間であったが、小さな寝ぐせがついていた。あの女にならまだしも、市橋の顔に寝ぐせは見合わない。一切の可愛げがない。


「つまらないですねぇ」


「あ?」


「吉田さんの回答がですよ。無駄なことを嫌う性格なのに、わざわざこの話を受けた。その辺の感情の動きを、僕としては気になるわけですよ」


「そんなことを言われても、俺だって俺の全てを把握してるわけじゃないんだ」


「まぁ、それはそうですけどね。人間ってそこまで論理的に動く生き物じゃないですしね」


「もしも人間が論理的に動く生き物だったら警察は廃業だろうな」


「いや、そうとも限りませんよ。人を車で半端に轢いた時に、これからかかる慰謝料と、殺してしまった時との罰金とを天秤にかけて轢き殺しに行く人もいますから。どこからどう見てもそうであったとしても、殺人と認定するのは難しいですからね。過失致死と思わせれば勝ちなわけです」


「論理的だな」


「ええ。何かと論理が大事だと言われますけど、この例を見て分かる通り、人間にとって一番大切なのはやっぱり哲学ですよ。つまり倫理です」


「まあ、どっちも大切って言うのが一番、角が立たない言い方だろうけどな」


「いいや、一番です。哲学こそが一番大切なんです。それぞれの哲学を土台に論理を組むのが普通なんですから」


 やられたと思った。話題は変わったと思っていたが、結局のところ市橋はこれらの話を、俺を批判する為にしていたようだ。俺の論理の起点をやはり市橋は見抜いているようだし、気に入らないようだ。


 俺はここで黙るのも癪だと思って、あえて気付かないフリをして話を続けることにした。


「それで、お前は哲学の何たるかを分かっているのか?」「そんなの分かりませんよ。それが分からないから、あんなに多くの哲学家がいるんじゃないですか?」


「確かに――そうだな。ああ、うん」


 俺はそう言ってから「市橋はどういう哲学を持っているんだ?」と訊いてみた。


 すると市橋は唸ってから机を優しく叩いた。どうやら今、答えを捻りだそうとしているらしい。


「そうですね。哲学と言うべきか思想と言うべきか、僕は最大多数の最大幸福を叶えることを優先しています」


「なるほどな。だからこそ病院にいる人間と部隊の命とを測りにかけて、あんな風に判断したわけか」


「ええ。それから平等という言葉も好きですね」


「それは矛盾しているな」


 とても命の重さを比べた人間の言葉とは思えない。市橋は俺の言葉に反論せずに「これは難しいところです」と答えた。そう思っているからこそ、平等を思想とはせずに好きな言葉に留めたのかもしれない。


 俺はこの手の話を久しぶりに市橋とするのも面白いと思い、もう少し踏み込んでみることにした。


「市橋の思う平等とは何だ?」


「差別のない世界って言うのがベターな回答な気がしますね。一番、反論の余地がない答え方じゃないでしょうか?」


「じゃあ、もう一つ踏み込んで差別とは何だ?」


「不当な扱いでしょうね。例えば――、看護師の知り合いがいる吉田さんなら分かると思いますが、彼ら彼女らはまさしく差別を受けていると言えるでしょう。職業差別というやつですかね」


 思い当たる節があった。市橋の言う通り、看護師は嫌な目線を向けられている存在である。理由は至極簡単、病人が次の『ゾンビ』候補である以上、それに深く関わる看護師も次の『ゾンビ』候補と考えられているからだ。


 あの女から、そういったことで悩んでいるという話は聞いたことがなかったが、しかしそれはあの女のなるべく暗い話はしたくないという気遣いであると俺は察していた。


 俺は世間の看護師への目を差別だと表現することについて看護師の知り合いとしては賛成であるが、しかし、ふと客観的な――それを客観的と呼ぶのかは分からないが、一歩引いて考えて見たときに仕方がないことではないかと思うところもあった。


「差別の話になると、それと同時にこんな言葉をよく聞く。差別と区別は違う、と。その辺について市橋の話を聞きたいな」


「つまり、吉田さんは看護師へのそれを差別ではなく区別ではないかと言いたいわけですか?」


「ああ。素晴らしい先読みだが、一つずつ答えてもらいたいね」


「分かりました、と、言ってもそれは難しい質問ですねぇ」


 市橋はピアノを弾いてるかのように机の上で指を遊ばせた。かなり深く考えているようであるが、表情に全く変化がないことから、大したことは思いつかなかったのであろう。市橋は「不当の扱いが差別で、単に違いをつけることが区別ですかね」と定義通りのつまらない答え方をした。出来れば、俺としては市橋自身の言葉で再定義することで、自分の発言に責任を持ってもらいたかったが、ここでは許すことした。


「それで、どうして吉田さんは看護師の現状について差別ではなく区別だと? つまり今の扱いに正当な理由があると言いたいわけですよね?」


「ああ、そういうことになる。ここで、お前はハンセン病について知っているか?」


「ハンセン病? ええ、道徳やら日本史の教科書で少しなら。差別がキーワードになる話題として」


「患者を強制的に隔離していたりしていたからな。見た目での差別もあったらしいが、これの理由は、ここでは単なるハンセン病への恐れとしておこう。じゃないと軸がぶれる」


 俺は言葉を続けた。


「当時のハンセン病罹患者への差別があったのは無知が理由とされている。感染することはまれであるというのに、偏見から強制的に隔離してしまった」


「まあ、一部分ではありますけど、その点について論じたいわけですね」


「ああ」


「なるほど。吉田さんはハンセン病患者へのそれすら差別ではないと、そんな挑戦的なことを言おうとしているのですか?」


「少なくとも、当時においては差別ではなかったと言いたい」


「それを主張するには大きな責任を伴いますよ? たとえここにいるのが僕と吉田さんだけでも」


「まあ、聞けって。俺の考え方はダメだと思われる方がむしろ俺にとっては良いんだ」


「どういうことか、想像がつきませんね。まぁ、どうぞ。主張を続けてみてください」


「現代の俺達がハンセン病に関するそれを差別だと断定出来るのは、ハンセン病についての知識――感染力が弱いということを知っているからに過ぎない。つまりある種の神の視点に立って考えた時に、これを差別としているだけだ。ハンセン病について無知だった当時は、その時代なりの論理、正当性をもって強制的に隔離していたんだ。だから、不当な扱いであったと、当時においては断定できない。何が差別にあたるのかは神が決めることではなく、その時代を生きる人間達の価値観で決められるべきだと俺は思っている」


 俺は言い切ってから、市橋の方を見た。気持ちが混ざりあった長台詞で彼に伝えたいことが伝わっているかどうか不安だったからだ。


 市橋は暫く黙っていた。言葉を咀嚼しているようであった。そしてまた、彼は机を優しく叩いた。


「なるほど、言いたいことは分かります」


 そう言ってから、市橋は言葉を吟味しているのか左手を顎に当てて目を瞑っていた。


「確かに共感できるところもあります。僕の実体験を考えるとするなら、やはりコロナのことですかね。今となっては、になりますが電車の中で咳をしただけで鬼の形相をされることや鋭い視線に睨まれることは差別的な恐ろしさが垣間見えるような気がします。しかし当時はそれを差別だとは思わなかった。テレビで連日報道されたコロナの患者を見れば、咳に過剰に反応することこそが普通の反応であると思えていたからです。この感覚は当時を生きた人間にしか分からないものでしょう。そういう意味で吉田さんの考え方に共感できるところがあります」


 市橋は「しかし」と言って言葉を続けた。


「この考え方は差別を正当化しようとする言い訳じみたものです」


 そう言ってから市橋はまた「やっぱりこの話は土台がダメでしたね」と言った。


「差別を土台にしたらやはり議論が難しくなる。差別の定義を不当な扱いとしたのが良くなかったようです。何が正当かということを人間が判断する以上、不当な扱いなんてあってないようなものですね。口が良ければ正当性を見出すことができちゃうんだから。ちょうどヒトラーのように」


「言えてるな」


 俺は市橋の考え方に賛同した。結局のところ、何が差別になるのかは人の主観によるところだと思った。


「平等を定義し直してもいいですか?」


 この話は市橋が平等を差別のないことと定義付けたところから始まった。しかし、それは差別という言葉の曖昧さから平行線に終わってしまった。それで、根本を見直そうというのだろう。


 俺は市橋の問いに「かまわない」と答えた。


「では、平等の定義はこうです。差別が起きないこと、それから全員が同様に扱われることです」


「それはまた、曖昧というよりも随分な綺麗事だな」


「ええ。だから良いんです」


 俺は、どういうことだと市橋を訝しんだ。


「この綺麗事を土台として考えれば、少なくとも差別は出来ないでしょう?」


「それはつまり、人々を同様に扱うということを聖書の一節にするということか?」


「そういうことになりますね。それを無理やり強迫観念として与えられる点で言えば宗教というのは平等を実現するための優秀な手段かもしれません」


「宗教を利用するという考え方は、無神論者のお前――というよりも、日本人らしい発想か」


 俺はもうこの話はオカルトの領域に入り込んだのだと思い、脳を休ませた。ここからはただの空論しか飛び交わないだろう。


「で、そんな宗教を創れたとしても市橋の言う平等は実現できるのか?」


「そんなの知りませんよ。僕を含めてほとんどの人間は理想家であって綺麗事を言うことしかできないんです。いずれ現れる実現家に夢を託すことが精一杯です」


「自分の夢を伝える手段が聖書というわけか」


「ええ、そうなります。自分で叶えられそうにない夢は他力本願です」


「なるほど。じゃあ、俺の考えではもうダメだな。その夢は実現しない。もう人類は滅亡するだろうから」


「いや、僕はまだ大丈夫だと思っているんですけどね」


 そう言ってから二人とも休憩室に掛けられている時計を見た。時刻は頃合い、もうここを出なければならない。


 最後に俺は訊いてみることにした。


「市橋、子供は出来たのか?」


「いや。そろそろ作ろうかと思っていた矢先にこれですよ。ああ、僕も本心はもう世界は滅びると思っているのかもしれない」


 俺達は休憩室を出て準備を済ました後、特殊車両に乗りかかった。俺達は今から戦場に向かうのだ。


 散々と理想を語った後、俺達は血の池を作るのかもしれない。

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