囚われている(2)

 四、




『吉田さん? どうしました?』


 電話口から微かに俺を呼ぶ声が聞こえる。しかし、俺は返事も出来ずに黙ったまま。そしてそのまま携帯を床に落としてしまった。鈍い音が鳴った。もしかしたら画面に傷がいってしまったかもしれない。


 しかし、それを認識しつつもそれに気を遣ってやる余裕が俺にはなかった。


 俺はテレビに釘付けになった。足が棒になった。いっそのこと膝間づいてしまってテレビの画面から目を逸らしてしまいたかったが、体が自由に動かせなかった。


『吉田さん! ちょっと! もしかしてテレビつけっぱなしなんですか?』


 市橋からのその声でやっと我に返ることができ、俺は携帯を拾った。画面に傷はなかった。


「もしもし。悪い。ちょっとな」


 俺はそう言って、急に黙ってしまったことを詫びた。


『いえいえ。テレビを見てたんですか?』


「ああ」


『それは――』


「いい。お前が俺に気を遣うな」


 テレビの画面には俺のトラウマとなった事件のことが今も流れている。それを察した市橋は俺に慰めの言葉を投げようとしてくれたみたいだが、市橋にだけはそれをされたくなかった。


 それはずっと同期だった人間に弱みを見せたくなかったとかそういうことではなくて、もっと小さな感情の引っかかりだった。プライドという言葉で済ましてしまうのは少し違う気がした。


『この事件に対して、思うところは色々とあるでしょうね』


「ああ」


『仕方なかったことです。吉田さんの指揮が失敗だというのはただの結果論です』


「だから――」


『いえ、これは気を遣ったとかそういうことではなくて、僕の分析結果ですよ』


 俺は溜息を一つ零してから、テレビの電源を消した。今から当時の謝罪会見を映そうとしていたからだ。何も見る必要はない。そこに映っているのは自分なのだから。もうすでにすべて知っていることだ。


「俺は今でも後悔してるよ」


 財務大臣を含む四の国務大臣爆殺事件。それが俺にとってのトラウマの事件である。『ゾンビ化』騒動が起き、市民警察と言う名のテロリストの活動が今よりもずっと盛んだった頃の事件である。


 その日の俺の仕事は東京で行われる国務大臣の遊説の警備を指揮することだった。つまり内閣総理大臣と国土交通大臣を警備することが俺の仕事だった。


 前日に市民警察から内閣総理大臣への犯行声明が出ていたため、現場の緊張感は一層のものであり、俺も今まで以上に気を張って仕事をしていた。


「全力を出して頑張ったって言うのは何の言い訳にもならないんだろうよ。だって、俺のミスで国土交通大臣は死んだんだから」


『総理大臣の命を守り切ったということは誇るべきだと思いますけどね。各地で政治家が殺されていく中、あなたは一人の命を救ったんです』


「成功以外が求められていない仕事で、一つでもミスればもうそれで全部ダメなのさ」


 警察の仕事とはそういうものである。時に、悪いのは全部犯人なんだから俺達はしょうがないだろ、と言い訳をしたくなることもある。しかし、それは許されないのだ。それが警察というものであるし、平和を守ることが俺達の使命だからだ。そして、それを受け入れて警察になったのだ。


『でも、やっぱりあれはメディアによる扇動のせいですよ。総理大臣への犯行声明が来たのだから多くの人員をそこに割くべきと訴えたのはメディアなんですか。そして、それに応えたらこれですよ。人員の使い方が歪だと。まったく、酷い話です』


「市橋、もういいから」


『いいえ、どうせなら最後まで僕の分析を聞いてください。メディアって言うのはやはりバカなんですよ。人員が限られているということを全く分かっていないんです。自分達が注目している事件にこそ警察は動くべきだと考えている。言っちゃなんですが、似たような事件死ぬほど起きてるんですよ。だから――』


「市橋」


 そう言って、俺は市橋を暴走を止めさせた。もはや分析ではなくただの愚痴になっていたからだ。


『――すいません』


「ああ」


『とにかく、吉田さん。あなたは最善を尽くせていたんですよ。だから、今こうしてその力を借りたいんです』


「随分と強引に話を戻したな」


 市橋はまた勧誘を再開した。一時間後に説得材料をそろえてから電話をするという話はどこにいってしまったのか。


『どうですか?』


「どうですかと言われてもだな。俺はもう、」


『もう一度やりましょう』


 俺は唸った。気持ちで市橋に負けているからだ。俺はただ逃げているだけと言ってしまえばそれまでだった。


 しかし、それを分かっていてもここで快諾出来るだけの勇気が俺にはなかった


「一時間後に電話をくれ。そこで返事をする」


 そう言って俺は電話を切った。


 俺は寝ぐせの酷い髪を触りながらシャワーを浴びることを決めた。




 背広を着てソファに沈み込んだ。約束の時間まで十分。もうすぐ市橋から電話がかかってくる。


 外出用へと着替えまですましてしまっているが、俺はまだ迷っていた。市橋の話を受けるべきか、受けないべきか。俺には分からなかった。


 俺には一つ、信条がある。それは無駄なことはしないということだ。この信条を当てはめて考えてみれば、市橋の話は受ける必要がないように思える。


 それは俺自身がどちらにせよ人類はもう滅ぶしかないと思っているからだ。たとえ俺が動くことによって事態が良い方向に動くとしても、どうせ滅びるのだから動く必要はない。


 しかし、思うことがある。人間とはどうせ死ぬものである。だから何もしなくてもいい。この論理には異議を唱えたくなる。そして、俺が掲げようとしている論理もこれと大差ないのではないだろうかと思えてきたのだ。


 俺はもう一つ体がソファに沈んだ気がした。


 なんとかして抜けだそうと思い、俺は立ち上がってインスタントのコーヒーを作ろうとした。


 大匙二杯を想像しながら大きめのスプーンで袋から粉を取り出し、マグカップの底にまいてやる。


 それから鍋に150ccを想像しながらテキトウに水を入れて、湯を沸かした。


「不味いな」


 溜息交じりに言葉が出た。


 どの量を間違えたのか、コーヒーを作ろうとして出来たものは茶色い白湯だった。


 思考は何もまとまらないまま、約束の時間がやって来た。何もするんじゃなかったと思った。


『もしもし。結論は出ましたか?』


「もう五分だけ時間をくれ」


 そう言って、俺は無理矢理電話を切った。




 悪いことをしてるとは思った。しかし、結論を出せないまま電話に出ることの方がもっと悪いと思ったのだ。


 そうして一人で考えようとしたとき、また電話が鳴った。もちろん、電話をかけてきたのは市橋である。


『もしもし』


「だから、時間をくれとさっき言っただろう」


 俺は苛立ちをあえて露わにしてそう言った。誰にも思考を邪魔されたくなかった。


 しかし、市橋は俺の言葉を聞いてくれなかった。


『迷ってるんですか?』


 俺はなんと言って電話を切ってやろうかと考えたが、結局なにをしたって電話をかけてくるだろうと思って、普通に答えることにした。


「ああ、そうだ」


 今度は怒りを抑えて言った。


『どうして迷っているんですか?』


「どうして――?」


 少し意外な言葉だった。市橋は、俺にどうしてかと訊いてきた。どうして迷っているのかと。


「どうしてって、それは――」


『悩むだけの価値が、まだ吉田さんにはあるということですね』


「えっ?」


『実はですね、警察はかなりのOBに戻ってこないかと普段から勧誘をしているんですよ。あっ、自分だけじゃないなんて少し寂しいとかって思いました?』


「そう言うのはいいから。何だ、何が言いたい?」


『つれないですねぇ。まぁいいですよ。それでね、勧誘をしたところでほとんどの人は無視したり、もう自分には関係ない話だって言う人がほとんどなんですよ』


「だから、話を聞いただけで俺にはまだ、やる気があるんだとでも言いたのか?」


『まぁ、そういうことでもあるんですけど、それだけじゃないです』


「さっきから何が言いたいんだ?」


『吉田さんが悩んでいるのは、やりたくないことだけど、やらなければならないことだと思ってるからじゃないんですか?』


 言われて、俺は感心した。自分が言語化出来なかった感情をこうも簡単に表現されたのが少し不思議でもあった。


「ああ、確かに、その節もあるかもな」


『じゃあ、やりましょうよ。吉田さんには不安もあると思いますけどね。でも大丈夫ですよ。どうせ死ぬならやるべきことをやってからの方が良いでしょう? 墓の下で後悔したって動けませんからね』


「分かった、ここは折れてやるよ」

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