階段
キミとバー
二、
死体の腐臭が漂うビル街を歩く。ふと、電柱にもたれかかった死体が美しい女だったから目を奪われた。明日の朝には、あの死体はここからなくなっているだろう。ゾンビの食糧とならないように国が回収するより先に、一般人の手によってきっとそうなる。なんのことはない。世の中そんなものだ。
そうして死体を物色しながら歩いて、ようやく目当てのバーに辿り着いた。背広についていた皺を手で伸ばしてから階段を降りてドアを開ける。毎週土曜日にやる慣れた動作ではあるが、今でも少し緊張してしまうのは、この先に好きな女がいるからだ。
店に入ると、その女はいつもの席に座っていた。カウンター席の右から三番目。長い後ろ髪はやさぐれいていて、着飾る余裕もない世の中であるから、色鮮やかな魅力はなかったが、それでも女らしい魅力は一つも失っていなかった。
現代において女らしいという表現は確かに危ぶまれるが、しかし男がどうしても獲得出来ない魅力というものを女は生まれた時から持ち合わせているように思われて、やはり男としてはこれを女らしいと形容せざるを得ないのだ。
目の前にいる女は、誰よりもそれを美しく纏っている。
「すいません。遅れました」
女の肩にそう声を掛けると、女は微かに髪を靡かせながら俺の目を見て顔を傾かせた。薄い化粧に朗らかな笑みを浮かべて、少し顔が紅潮している様子が俺にはたまらなくて、目をそらしてしまった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
言ってから、俺は女の右隣に座った。カウンターテーブルの上には、シードルとウイスキーが置かれている。
「それ、頼んでおいたよ」
女にそう言われて、ウイスキーの方を見ながら俺は後悔した。この女と出会った日のことである。俺は調子に乗ってウイスキーが好きだと言って、いや、それだけじゃなく酒に強い自慢までしてしまったのだ。本当はそこまで強い方じゃない。
「ああ、ありがとう。――それじゃあ、カンパイ」
そう言って俺はウイスキーを喉に流し込んでいった。途端に焼かれていくような感じがして、この感覚を心地良いといえる日が来るのはいつになるのだろうかと思った。嘘を撤回する気は全くなかった。
「遅かったけれど、何かあったの?」
女はグラスを置いてからそう訊いてきた。優しい顔つきなせいで迫力はなかったが、目は銃口のように鈍く光っていた。
「いや、なにもなかった」
「何もなかったのに女を待たせるなんて良い度胸してるね」
「悪かった。次からは気を付けるよ」
「使い古された謝罪の言葉なんて見慣れたマジックよ。驚いてあげるけれど、一番満足しているのはマジシャン本人。なんのための謝罪なのか」
言われて俺は狼狽した。女は恐ろしいことにそんな俺を見て満面の笑みを浮かべていた。すると穏やかな目つきに変わって、「冗談よ」と笑って言った。
「冗談だとしても、俺は何も言えないよ」
「別に、全く気にしてないのに。根には持っているけれど」
「ああ、もう。どう謝ればいいんだ」
「だから、気にしてないって」
女はやはり笑顔だった。全てを慈しむような優しい笑みを浮かべながら、「悪女を演じてみたかっただけだから」と嗜虐的な目をもって俺の反応を楽しんでいた。
悪女というよりは悪戯っ子の方が的を得た表現のような気がするが、子ども扱いするなと怒られそうだったから指摘するのはやめておいた。
「それで、どれくらい待ったの?」
俺がそう訊くと、女は時計も見ずに「五分くらい」だと答えた。本当は約束の時間から十五分も遅れている。俺はもう一度頭を下げた。
そうして、女にその話はもういいと言われた後、ウイスキーの熱に喘ぎながら「最近の、仕事の調子はどう?」と尋ねてみた。
「あんまり良くないかな」
女の表情は暗かった。いつもの顔は雪のように白いけれど温もりがあるというものであったが、今は幽霊のように冷たい白をしていた。
「どうして?」
俺はこれ以上踏み込むことを一瞬躊躇したが、なにか力になれるかもしれないという驕りが俺の背中を押してしまった。
「看護師は子供の頃からの夢だったんだろう?」
この話は昔、世界がこうなる前にまさにこの席で聞いたことだった。そして、俺はいつものように看護師という部分を小声で言った。
「そうだけど。でもやっていることは真逆よ」
「と、言うと?」
「――ここで話をすることじゃないけれど。――安楽死よ」
女は俯きながら声を細めてそう言った。
「ああ、なるほど」
「全く。あんなものどうして認めちゃったのかしら。それに、インフォームドコンセントもないんだから、あんなのただの殺人よ」
俺は黙ってしまった。この女を慰める言葉を見つけられなかったからだ。
質問に答えるのは簡単だった。安楽死を認めた原因はまさしく『ゾンビ化現象』と、それに慄いた人間である。
もちろん、以前から安楽死を認めようという声が大きかったのもあるが、しかしそれが直接のきっかけとは言えない。『ゾンビ』は感染してなるもの、つまり免疫力の落ちた病人は『ゾンビ』になりやすいのではないのか。だから、いっそのこと殺してしまえという風潮があった。安楽死は病床に臥し、死を待つだけとなった人達への救済が目的ではなく、エゴイストのために採用されたのだ。
ゾンビになる前の症状として、高熱というものが多くみられたこともこの風潮を手伝ってしまった。
「安楽死を認める時、病院の様子はどうだったんだ? 患者とか、色々思うことはあるだろう?」
「賛成している人も多かったわよ」
「えっ? そうなのかい? だって、自分がやられちゃうかもしれない話なのに。それは随分と意外だなぁ」
「安楽死が採用された後、ふんぞり返る人も多かったけどね」
「ふんぞり返る?」
「安楽死の対象に選ばれてないから、私は『ゾンビ』にならないんだってね」
女の言葉を聞いてなるほどと思った。当時、病人は次の『ゾンビ』になる候補だと思われていたから立場がなかった。そこで安楽死制度の導入されたことで、その対象となっていないことが逆に医者からのお墨付きになったのだ。俺は安全だと言い張れるわけだ。次の『ゾンビ』候補から自分をはずすことに成功したということになる。
なぜなら、次の『ゾンビ』候補は医者によって安楽死させられているはずだから。
他にいじめの対象を作ったことで、自分がいじめから脱出した。悪く言えばこうなるだろう。
「その話を聞いて、コロナの時のことを思い出したよ」
「コロナって、私達が中学生の時の?」
「いや、俺は高校生だったけどな。ほら、三つ離れているから」
「あっ、そっか」
俺が二十七歳で、この女が二十四歳。学年が三つ違うから、時々こういうことがある。少し可笑しくて、俺達は笑ってしまった。俺は歳がそれなりに離れているのに、お互いタメ口で話しているという不思議な距離感が改めて考えてみると少し面白かったのだ。
ちょっとしてから女が訊いてきた。
「それで、どうしてコロナ?」
「マスクの話があっただろ? マスクをしている人間とマスクをしていない人間で対立があった。あれはさ、マスクをしてない人が危ない――意識が低いっていう考え方からじゃなくて、マスクをしている自分はあの人よりも安全なんだと思いたいからだったんじゃないのかなと思ったんだ」
「誰かを下げることで、自分が優位に立とうということ?」
「ニュアンスはそんな感じかな。自分は大丈夫っていう根拠めいたものを欲しがったんだ。もちろん感染を防ぐためっていうのもあったと思うけどね。でも、あれは少し差別的な思考が垣間見えた時のような嫌な暗い雰囲気があった」
「分からなくもないわ」
女は俯きながらそう言って、言葉を続けた。
「それでいったら、今回の安楽死はちょっと酷い問題よ。高熱の患者に対して安楽死するための薬を投入するかどうかは、ほとんど医者の独断と偏見だし」
「そういえば、どうして『ゾンビ』になる前に安楽死させたりするんだ?」
よくよく考えてみるとそうだ。今やっている『ゾンビ』になりそうな高熱を出した患者から安楽死させるという水際作戦はどうなのだろうか。上陸させてから、つまり『ゾンビ』になってから安楽死させても問題はないように思える。
「病院で『ゾンビ』が現れたら評判が落ちるからよ。それに『ゾンビ』が現れたら市民警察に狙われるかもしれないし」
「だから、『ゾンビ』になる前に処理してしまいたいのか」
「――処理。うん、そうだね」
「いや、言い方が悪かった」
俺はウイスキーをまた一杯呷った。
「それで、安楽死の対象に選ばれやすい人の傾向とかもあったりするのか?」
「えっ、ううんと。でも、美人とそれから金持ちはまず対象にならないかな。まさかお金を貰ってるなんてことはないと思うけど」
「こんな時になっても顔か。でも、君としてはラッキーかもな」
言ってから女の顔を見て後悔した。冗談交じりの言葉だったがこれは良くなかった。そもそもこんな暗い話題をいつまでも続けていることが良くない。俺は女の困った目から逃げるように、またウイスキーを一杯口にした。
「関係ない話になるけど、プロの女性ピアニストってみんな美人だよな」
言いながら、しまったと思った。話題を変えようとしたつもりが変えきれてなかったからだ。でも、ここで話をやめるわけにはいかないと思った。
「あれってもしかしたら、ピアノコンクールの選考委員にはそういうきらいがあったりするんじゃないのかな?」
俺は言い切ってから、「いや、そんなことはないか」と付け足しておいた。俺は空になったグラスを見つめて、恋の後進を感じた。
それでも女は俺の方を見てくれていた。
「さあ? でも、そんな趣味があるのはテレビの方じゃない? コンサートに行けばそうじゃないピアニストもいっぱいいると思うわ」
そう言ってから、俺がするべきことだったことをこの女がしてくれた。
「それで、あなたの方は仕事どうなの? 吉田さん」
つまり話題を変えてくれたのだ。しかし、この話題は俺にとって不都合なものだった。元を辿れば俺の失態であるが、なんとも言えない感情があった。
俺がどう言い逃れようかと考えていると、女の追求があった。
「たしか、警察なんでしょう?」
俺は狼狽えた。俺は警察だった人間で、今は無職なのだ。しかし、俺はいつものように嘘を吐くことにした。
「ああ。あんまり良い調子じゃないね」
テキトウなことを言った。しかし、まだ嘘がバレていないことは嬉しかった。俺は警察として謝罪会見といったものを開いてから退職したのだ。もちろん、それはニュースとして連日テレビで報道された。
そんな情けない過去が、まだ意中の女にバレていないということは俺にとって嬉しい誤算だった。まあ、よくよく考えてみれば警察の会見なんていうものは世間からすればどうでもいいものであるから、むしろこれが当然とも言えることではある。
「警察ってやっぱり忙しいの?」
女が心配そうな目をしながら訊いてくるから、胸を締めつけるものがあったが、しかし嘘を吐くことは慣れたことだった。
「うん。と言っても、君とこうして飲んでいると説得力がないけどね」
俺はつらつらと言うべき文章を思いついていた。
「やっぱり『ゾンビ』に関することが多いよ。ゾンビハンターなんていう殺人鬼もいたし、それからやっぱり一番の敵は市民警察だね」
「ああ、あれね。『ゾンビ』と、それからその保護派まで殺しまわっているっていう――」
「本当に、そんなので警察を名乗られるのは迷惑でしかない」
「いつになったらこんな地獄が終わるのかな」
「さあ。でもコロナの時もそうだったけど、終わる時は静かに、いつの間にか終わってるさ」
俺は想像と逆のことを言ってみせた。本当はダメだと思っている。もう人類はもたないと思っているのだ。だからこそ、俺は警察を辞めた後、再就職をしなかった。そんなことしても無駄だと思った。どうせ、もうもたないんだから。
何にもやりがいを見出せない以上、わざわざ何かの職に就くのは無駄だと思った。俺は無駄なことは嫌いなのだ。
「私達、出会ってからもう一年以上経つよね」
酒に酔ってきたころ、女は唐突にそんなことを訊いてきた。俺は「そうだな」と相槌を打って読めない先の展開に喉を鳴らした。
「あなたって私のことどう思っているの?」
俺はこの女は完全に酒に酔っているのだなと思った。酒で出来上がった天然のチークに彩られた女の顔は今まで以上に魅力的で、俺の中の男が魅了された。
それと同時に俺は窮地に立たされていた。どう返答すればいいのか分からないのだ。本音だけで生きていける世界ならば、俺はここで好きだと言ってしまえばいい。
しかし、世の中には駆け引きというものがあるらしいのだ。俺は女という生き物とそれをしたことがなかったから、こういう何か恋を連想させる質問に何と答えれば良いのかが分からなかった。
「黙るのね」
女は大きく溜息を吐いた。
俺はどうするべきか分からなかった。こんな雰囲気で告白なんてしても無駄なことは間違いないだろうし、そもそも告白するにしても、あいらぶゆーの感情を何と日本語に訳せばいいのか想像もつかなかった。単に好きだと言ってしまうのは、足らないと思ったのだ。
女は続けた。と、言うよりもここでやめてしまった。
「うん。もういいわ。今のは私が強引過ぎたから。ごめんなさい」
「いや、その、こっちこそごめん。うん」
俺は何か言わなければと思った。でも、何も言えなかった。そこから先の事は、わざと記憶に蓋をした。
今日はなにもかもがダメだった。いつもなら、確かな恋の前進に満足を得ている時間なのに、今日はもう踏み出す足の全てが重かった。
いつもは気にしない帰り道の死体が、今日はとても恐ろしいものに見えた。
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