【長編】螺旋階段
三文
走馬灯、その断片
西洋の言葉
「Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.」
一、
こんなことになってから気が付いたことだが、人肉というのは豚のそれよりも魅力がない。死体を蹴ってみた時、なんの反応も見せない癖に肉の弾力だけが感じられるから、それが酷く直観と反していてむしろこれは精巧に作られた人形ではないのかと思わされてしまうのだ。死体が反応を見せないことは考えてみれば当たり前のことなのだが、しかしどうしても抜け殻になった体にも生きた人間らしい動き方を求めてしまうのだ。死体と言う存在を脳が受け入れられないでいるのだ。
世界がこうなってしまってから、今までグロ画像だとかと言って目を逸らしてきたものが避けようもない現実となってそこら中に転がっている。頭のない死体なんて想像するだけで嫌なものだったが、今となってはそれはマシな方だとさえ思える。車で轢かれた死体や犯された死体なんかもざらだ。
まさか、死体が見慣れたものになるなんて思ってもいなかった。
世界がこのような地獄になってしまったのは、去年のクリスマス頃だった。突如、テレビを支配したのは「フランスでゾンビ発生」と銘打たれたニュース番組である。しかし、実際のところ俺はこのニュースのことをあんまり覚えていない。それがクリスマスの陽気な気分に惑わされてなのか、それとも普段からニュースを自分事だとは思わない性格からか、それほど興味を持つことは出来なかった。あえて例えるならデング熱に向けた感心と同等だろう。テレビに映った不気味な歩き方をする人間に、多少の恐怖は覚えたが、それでも所詮は海の向こう側の出来事だろうと思ったし、たとえ日本にゾンビがやってきたとしても、この国の科学力なら何とかなるだろうと思っていた。
当時から専門家は、「世界の終末がやってきた」とコメントをしていたが、これに対しても俺はノストラダムスや聖徳太子の予言の真似事だと思っていた。想像力だけが豊かな馬鹿だと見下していたのだ。
しかし、馬鹿は俺の方であった。
一月二十九日の事である。日付まで覚えている。俺はこの日、自分の目を疑った。そして自分の認識が間違いであったと知ることになった。ヨーロッパの国旗がいくつも燃えていたのだ。もはや無政府状態だと広場でスピーチをしていた大統領はその場で何者かに射殺された。
この日から俺は「ゾンビ化」現象に関する論文を読み漁るようになった。
今でも世間は街を跋扈するあの存在を歩き方や汚い体から「ゾンビ」と称しているが、実際のところあれはゾンビという死体のまま蘇った悍ましい存在である化け物ではなく生きた人間である。
学者は「ゾンビ化」した人間に対して脳の異常を指摘している。詳しいことは分からないが、「ゾンビ化」した人間は自我を失っており、さらに知能の著しい低下と攻撃的な性格が見られるらしい。俺が初めて「ゾンビ」を見た時、あれは狂暴な野生な猿に似ているという感想をもったがあながち間違いではなかったらしい。「ゾンビ」はもはや話すことも出来ず、人間に近づけば噛み付くだけではなく殴りもするし蹴りもいれてくる。
それから、これが「ゾンビ」がゾンビではないという最も分かりやすい具体例になるが、「ゾンビ」に噛まれたとしても「ゾンビ」になるわけではない。むしろ「ゾンビ」は人間を平気で殺し、そして食べてしまう。もしかしたら、現実に現れた「ゾンビ」は映画で見たゾンビよりもずっと恐ろしい存在なのかもしれない。
噛まれて「ゾンビ」になるわけではないのなら、彼らはどうして「ゾンビ」になったのだろうか。そんな疑問に答えてくれる論文もあった。
どうやらウイルスのように感染していくらしい。ウイルスのようにという比喩表現は、実際にウイルスを発見したわけではないからだとし、そこから医学的な説明が続いていたが、その辺りは俺には分からなかった。
学会はこの論文を深刻に受け止め発表することを躊躇したらしいが、俺にはその理由が分からなかった。しかし、すぐに現実が教えてくれることとなった。
二月十二日、日本の福岡県で初めての「ゾンビ」が発見。警察が出動し、これを拘束。即座に近くの病院へと搬送されることになった。しかし翌日、院内で多数の「ゾンビ化」が発生。警察はこれに対して催涙ガスを使い、一時的に「ゾンビ」の行動を封じることに成功した。
しかし、問題はここからであった。ニュースでの報道で例の論文を知った県民にとって、「ゾンビ」を病院に封じ込めたところで満足は出来なかった。「ゾンビ」はウイルスのように感染していく。つまり、この県民こそが次の「ゾンビ化」候補なのである。
この現象における一番の問題はヨーロッパがそうであったように、「ゾンビ」ではなく市民の方であった。
福岡では二つの意見が飛び交った。
一つは、あの「ゾンビ」が催涙ガスも効くような生きた人間であるということも忘れて、処分するべきだという意見。
そしてそれへの反論として保護するべきだという意見だ。
保護派は謎の人権団体だと揶揄もされたが、なかには「ゾンビ」になった人間の家族もいた。そういった人間の演説には俺も何かこみあげてくるようなものを感じたが、しかし現実は非情だった。
二月十五日、病院は燃えてなくなった。何者かが火をつけたのだ。処分を訴えた人間には、「ゾンビ」が同じ街にいるということが耐えられなかったのだ。
ただ、結果的に言うとこれが良くなかった。これこそが「ゾンビ」の病院からの脱走を許してしまったのだ。事件から一週間が経過した頃、福岡では次々と「ゾンビ」が発見された。さらに現場が混沌へと陥ったのは市民警察という謎の武装集団の出現だった。彼らは「ゾンビ」の撲滅を理念とし、どこから持ち出したかも分からない銃をもって殺戮活動を開始した。
もしかしたら、それだけならまだ良かったのかもしれない。後に、彼らの殺戮の対象に「ゾンビ」保護派も加わることになった。
警察は市民警察の確保へと躍起になったが、確保と殺戮では出来ることが違った。警察は事態の鎮静化をはかれなかったことで信用を失い、極めつけは『財務大臣を含む四の国務大臣爆殺事件』だ。警備上のミスが散見されるとともに、世論は「ゾンビ」処分派こそが多数派へと移り変わり、警察と市民警察の立場は逆転した。
福岡から始まった二つの地獄は全国へと波及し、国会議事堂までもが戦場となった。今ではそこら中に死体が転がっている。
嫌なことに、こんな事態になっても悪いニュースというのはやってくる。
新しい論文が発表された。要旨はこうである。「ゾンビ」は人肉以外を食さない。つまり、街に転がっている死体こそが「ゾンビ」にとっての食糧であり、それを提供しているのは、「ゾンビ」ではなくむしろ人間の方であるということだ。あの日、院内で「ゾンビ」を確保し放置し続けるだけで、もしかしたら事態は解決していたかもしれない。
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