第3話 霧がかった悪夢
それから長い年月が経過し、リオは34歳になっていた。
今では携帯電話が主流になり、あの電話の権利も売ってしまった。
夫とは燃えるような大恋愛の末というわけではなく、彼の上司に紹介をされて出会って一年も立たずにあっさりと結婚をした。
「白いYシャツの人」に抱くような想いはなかったけれど、安定を約束されたかのように平凡で穏やかな日々を過ごしていた。
しかしリオはまだ「白いYシャツの人」のことを忘れることが出来ずにいた。
夢のなかで出会ったあの男性と結婚をするのだとずっと思っていたが、彼はリオの目の前に現れることはなかった。
あの夢は幻想に過ぎなかったのだろうか?
2008年リオは、ある殺傷事件を前日に予知していた。
結婚してまだ間もない頃だった。
書くことにとても躊躇いを感じている。
10月7日土曜、リオは以前から行ってみたいと思っていた飴山を訪れることになった。
ちょうど夫が休暇だったということもあり、行ってみようかということになったのだ。
雲井戸町を南口で下車し、右へ折れて線路沿いを歩くと入口の看板が見えてくる。
その日はマグロの解体ショーが行われていた。
人通りはそこそこあり、道路に対しての人口密度が高くなっている。
行き交う人々の気が混じり合い、リオは息苦しさを感じながら目の前の人混みをぼんやりと見つめていた。
すると突然、恐ろしい光景がたぶん 脳裏を通して眼前に広がった。
今リオが歩いている薄暗く湿り気のある路地の人混みの中で小面積に被さるように小柄な男が走っているのが見えた。
その男は両手で包丁を腹の中心部で構えて、
前かがみの低い体勢で次々に人を刺している。
男の周りは霧のようにモヤ掛かっていて
実際の人間サイズよりも小さかった。
それはリオの前で数秒ほど映し出された後、ぱっと消えてしまった。
道行く人はモヤが消えた後も変わりなく歩き続けていたし、日常は滞りなく続いていた。
夫の顔を見ても何は反応はない。
誰にも視えていなかったのだろうか。
(こんな人混みでベビーカーを押していたら、身動きが取れずにすぐさま追いつかれて殺されてしまうだろうな...)
リオは冷静に姪たちのことを考えていた。
不可解ながらも、とりあえず惰性で歩き続けていたが、徐々にとてつもない恐怖に襲われて、不安と焦りで心臓がバクバク鳴り始めた。
到着してからまだ15分ほどしか経っていなかったが、
「帰ろう、急いで、早く!」
リオは夫に懇願した。
夫は意味もわからずに逃げるように足早に歩くリオの後ろ姿を追いかけた。
(大変なことになる、一刻も早くこの場所から離れなければならない)
焦りのせいでリオの足はもつれていた。
駅のホームでもリオの心臓の音は鳴り止まずにいた。
魔物に追いかけられて命からがら逃げてきたという状況が最も相応しかった。
無事に乗車できるとリオはつり革にぶら下がるように身体を預けて 安堵していた。
夫はリオにどうしたのと問う。
「信じてもらえるかわからないけど」
リオは前置きをした。
「前かがみの低い体勢で次々と人を刺している男が視えて急に怖くなったの」
落ち着かせるように深い呼吸をして、自分の身に起こったことを説明した。
夫はよく分からないという表情をして 、
「ま、いいや」
それだけ言ってアイスティをごくんと飲み干した。
そんな夫の態度を見てリオは悪いことをしてしまったのではないかと思った。
妹のアリアにも話してみたが、
興味もなさそうだったので、リオはもうこのことを忘れることにした。
次の日、リオは午前中で仕事を終えて、買い忘れていたフランス語のテキストを探すために六双駅へ向かおうとしていた。
書店はたくさんあるのにも関わらず、
何かに取り憑かれたかのようにあの方向に足が向いていたのだった。
リオは双子のアリアに電話を掛けて、
「六双駅にアリア君が好きそうなカフェが出来たみたいだよ、今から来ないか」
リオは父親のフリをしておどけていた。
しかし電話越しの様子はいつもと違う。
「今そこ行かないほうがいいよ、まだ着いていないなら引き戻して」
アリアは事件のことをを淡々と説明し始めた。
リオは手に持っていたショップ袋をバサッと地面に落とし、急いでそれを拾い上げ すーっと大きく空気を取り込んだ。
「ねぇ..その場所はどこなの」
リオは尋ねた。
「だから六双駅の..もしかして昨日言っていたのって..」
アリアは口をつぐんだ。
リオは昨日の光景を思い出していた。
「そうなのかも
でもニュースを見てみないとわからないよね」
その時夫から着信が入った。 焦り気味の様子で
「今どこにいるの、昨日のあれだよ、あの近くで通り魔事件が起きたんだよ」
夫の声からは、ただ事ではない物々しさが伝わってきた。
昨日、恐怖のあまり急いで戻ってきたのは事件の隣駅の雲井戸駅だった。
今日は事件が起きた六双駅へ向かおうとしていたのだった。
この2つの駅は歩けば数分で着くような距離感だ。
「うん..大丈夫だよ、今から戻るね」
リオは全身の力が抜けおちていくような感覚に襲われて携帯を強く握りしめた。
理屈にもならないこの話を誰が信じようか。
リオでさえ半信半疑でいるというのに。
その日はとても穏やかな青空が広がっていた。
しかしリオにはすべての景色が薄茶けたセピア色にしか見えない。
自宅に戻りドアを開けると事件のニュースが目に飛び込んできた。
リオはゆっくり床に座り込み、ブラウン管に映る男の姿を探した。
昨日の光景を再び思い返して夫の腕をぎゅっと掴んでいた。
18人が次々とナイフで刺されて6人が死亡、8人が重軽傷を負うという凄惨な事件だった。
「昨日、頭に浮かんだ状況と一緒...私、予知しちゃったの...」
リオは静かに立ち上がり窓際の壁に身体を保たれて、渦巻いた感情のひとつひとつを折りたたむようにして整理をしていた。
窓に付着した埃のせいで陽射しがきらめくように乱反射していた。
リオは予知した驚きよりも犯人に対する怒りの方が強かったのだった。
「こわいな..いや、危なかったよ、昨日のあれ本当だったんだ」
夫はつぶやきながらキッチンへ向かう。
リオも夫もこの不可思議な出来事ををどうにも解釈出来ずにいた。
夫が淹れてくれた紅茶の湯気をじっと見つめながらリオは考えていた。
明日という未来が時を巻き戻して現在にやって来るというのはドラえもんでもない限り無理なことで、科学的に説明がつかないことである。
そして何者かがリオに警告として予知を視せ、そこへ行くことを阻んでいたとしか思えなかった。
では、いま何かに悩んであれこれ手探りしていても、すでに未来は決まっているのだろうか。
リオは脳裏に浮かんだあの男が本当に通り魔の犯人だったのかを確かめてみたいと思っていた。
しかし刺したときの体勢までは報道されていない。
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